こんばんわ、トーコです。
今日は、三島由紀夫の『天人五衰』です。
■あらすじ
老齢の本多は、清水港で16歳の安永透に出会います。彼の左の脇腹に3つの黒子が。
それを見た本多は、彼を養子に迎えることにします。
■作品を読んで
いよいよ最後の巻までたどり着きました。はー、長かったよ。以下はこれまでに紹介した『豊饒の海』シリーズです。
それにしても、本多さん、あんたいつまで輪廻転生を追っかけてんのよ…、と突っ込んだら物語にならんのでしょうが、清顕の生まれ変わりを探す旅に良くも悪くも執着の度合いが半端ないです。
でも、最後にいろいろと打ち砕かれます。なんか、この終わり方が1番すがすがしいなと思います。だから、妙に後を引かないのだと。
ちなみに、トーコの読んだバージョンは古いもので、■あらすじの上に貼っている画像の表紙とは違うもので読んでいました。
こちらの表紙は、なんとコンパスです。透が港で仕事していたことというよりは、この行き先が不明で、定まっているようで定まっていないこの物語の象徴な気がして、とてもいい表紙な気がしています。
さらに地味にクリーム色で、水色が断片的に描かれているのが海のように見えるという、とても情緒ある表紙でトーコは好きなんですけどね。
そんな話はおいて、それでは作品に行きましょう。
76歳になった本多は、妻梨枝を亡くし、1人で旅するようになります。そんなときに旅先で出会った安永透には、左の脇腹に3つの黒子がありました。
本多は、これまで登場した清顕(第一巻)、勲(第二巻)、ジン・ジャン(第三巻)の生まれ変わりと信じ、透を引き取り、養子にします。
彼には英才教育を施し、透も東大に進みます。しかし、透は本多老人と同じ心の構造を落ち、まるで鏡のように反目しあうようになります。
というか、そもそも旅先で出会った見ず知らずの少年に対して、脇腹に3つの黒子があるから養子にするって、結構無茶苦茶…。
それは少しずつ迫っている死の影がそうさせたのかもしれません。そんな現在の生活を支えているのは、久松慶子でした。
20歳になったら、透は養父の本多に対して地獄に落としてやろうと考えていました。
手始めに、透は養父の本多の意向に少しずつ逆らっていきます。まずは、決めた婚約者との婚姻を破棄します。
そのころには本多は80歳になり、知的聡明さは消え失せ、何事にも卑屈になり、態度はおろおろし、たえず不安に脅かされていました。人生の末期にご苦労様です…。
本多はのぞき見をしてしまい、警察に逮捕され、週刊誌沙汰になります。透はこのすきを狙って、本多家の当主になろうとします。
が、久松慶子によって失敗します。透にとって久松慶子は何も言わない味方だ、くらいにしか思わなかったのでしょうが、久松慶子は最後まで本多の側にいました。
というのも、透に本多がなぜ養子として引き取ったのか、そのゆえんの清顕から始まる物語を聞かせ、最後に「あんたは彼らの生まれ変わりではなかったね」とダメ押しの一言を言い、立ち去ります。
透は本多から夢日記を借りて読みます。しかし、その後透は自殺未遂を起こします。
自殺のトリガーは久松慶子がした話であることを、本多に聞かれ久松慶子は認めます。本多は久松慶子と絶交します。
そこは絶交しちゃダメだろ、友情はこのためにあるのにね、と思いつつ。
透は一命をとりとめますが、失明します。21歳になり学校を退学し、港にいたころからの知り合いの女の絹江と結婚します。ただ、この絹江という女はなかなかの狂女ですが。
2人はお互いにしか興味がなく、文字通り遊んで暮らしています。やがて絹江が妊娠します。そこはしっかりしてたのね…、と思うのはトーコだけではないと信じ。
81歳にいよいよ内臓も足腰も悪くなり、死期が近づいてきた本多は奈良の月修寺に行きます。門跡に会うためです。
門跡は第一巻で登場した綾倉聡子で、83歳になっています。もともと美貌の令嬢でしたが、仏門に入りひたすらに浄化され、美しさに磨きがかかっていました。
本多は門跡に清顕の話をします。が、門跡は「松枝清顕という人はどういう人やった」と尋ね、本多に語らせます。しかし、最後に門跡は「松枝さんとやらは存じませんなあ」とのたまいます。
門跡は覚えているのか、本当に忘れたのかなかなかに釈然としないような表現で本多に言います。というか、これが1番印象的です。
記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに
すごいセリフ…。記憶と言うのは本人の中のもので、しかも不確実性を帯びているものというのを改めて突きつけられます。
幻の眼鏡のようなものにひたすら囚われ続けた本多の一生って…、と読み手はあっけにとられます。
本多はこの後無の境地に達します。これで、『豊饒の海』シリーズの幕は閉じます。
解説文を読んでいたら、なんと第一巻で、清顕と聡子はこんな会話をしていました。
「君はのちのちすべてを忘れる決心がついているんだね」
「ええ。どういう形でか、それはまだわかりませんけれど。私たちの歩いている道は、道ではなく桟橋ですから、どこかでそれが終って、海がはじまるのは仕方がございませんわ」
考えてみれば、それは二人が終末について語ったはじめであった。
刻一刻と迫る納采の儀に向け、清顕と聡子はもう会うのもはばかれるくらい大変な時期のこと。そのころにはすでに聡子は「すべてを忘れる決心」をし、そのまま実行したのかもしれませんね。
なんか、聡子の強さというかしたたかさにしてやられた感が否めないですが。
ちなみに、タイトルの「天人五衰」とは仏教用語で、六道最高位の天界にいる天人が長寿の末に迎える死の直前に現れる5つの兆しのことです。
『涅槃経(ねはんぎょう)』では、「衣服が垢あかで汚れる」「頭上の華鬘けまん(仏具としての装飾)がしおれる」「からだが汚れて臭う」「わきの下に汗が流れる」「自分がいるべき座席を楽しまない」の五つとされています。
最後のころの場面で、透はすべてに該当します。というか、「わきの下に汗が流れる」はこの酷暑だと誰もが該当しそうなので、みなさん気を付けましょう。
■最後に
読後に、「夏草や兵どもが夢の跡」という松尾芭蕉の句を思い出しました。
人の栄枯盛衰はこうやって語られ、世界は曲がりなりにも回っているんだなあ、と思わせる作品です。