こんばんわ、トーコです。
今日は、司馬遼太郎の『空海の風景』です。
■あらすじ
空海の幼少期から、唐に留学し、唐で学んだ密教を広めました。
また、学校でならうことはないので、あまり知られていない空海の姿を垣間見ることができます。
■作品を読んで
小中学校で、平安時代初頭の仏教は、最澄の天台宗と空海の真言宗と習った方は多いと思います。で、この2つはどちらも密教だと言われているはず。
この作品を読めば、空海の一生だけでなく、空海を取り巻く人々や、最澄、果ては時の天皇のことにも言及しています。
司馬作品によくあるのですが、1つのことを話しながら自然(⁉)と脇にそれて、また戻る。
この作品でもかなりよく見られます。
密教といっても、2つの宗派は厳密には違いがあります。
最澄の天台宗はあくまでも密教ではありません。天台宗はそういう性質ではないらしいです。
しかも、最澄は留学最後に密教の書物を空海より早く持ち帰ったがゆえに、朝廷での信頼等を得てしまい、結果天台宗の地位が向上しました。
一方、密教を学ぶために空海は唐に留学生として渡航しました。唐では、密教の教祖恵果から密教の免許皆伝を受けました。
それも、恵果は空海に対して恵果が持っているものすべてを伝授しました。恵果は空海を一目見て、「こいつが私の術を受け継いでくれる!」と思ったそうです。
空海も見事にこたえました。なかなかです。この1件は、唐の宮廷でも有名になったとか。
通常遣唐使として渡った留学生は滞在20年が原則ですが、空海は密教も学びきったので、2、3年で無事に帰国することができました。
帰国後空海は、大宰府に据え置かれてから、京へ行きました。なぜ、大宰府に1年も据え置かれていたのかというと、密教は最澄と思われていた中で、空海が登場したからでした。
1番焦ったのはおそらく最澄です。ここからは、空海だけでなく、最澄にもフォーカスが当てられます。
最澄は空海に弟子入りを志願します。
空海の持ち帰った密教は、宗教体系としてきちんと整理されており、理路整然していました。
その一方で、最澄の密教はそもそも天台宗であり、しかも宗教体系としても理論が整理しきれていない状態でありました。
この天台宗の状況は、最澄と対立している奈良六宗が見逃すはずありません。最澄としてもピンチの状況でした。
空海は最澄の弟子入りを認めます。ですが、最澄がとりあえずの密教の免許皆伝…を空海が見逃すわけはありません。
やがて、空海は最澄の免許皆伝のために送られた弟子を通して、最澄との関係を断絶します。
えー、何が言いたいのかというと、実は、最澄と空海はちゃんと接点がありました。
日本史の時間に学ぶとしたら、「平安時代の宗教は最澄の天台宗、空海の真言宗」という破片しか学びません。
こうして本を読むと、最澄と空海の交流があって、のちに断絶するけど、宗教の体系をそれぞれ確立していったんだな、ということを知ることができます。
それにしても、1000年以上の前の人の文章が良く残っているなあ、と思いますが、今も続くそれぞれのお寺にきちんと保存されているそうです。
正直、それもすごい話。でも、ある程度は司馬さんの推測も入っていますがね。
■最後に
歴史の断片でしかない知識も、こうやって作品になるとかなり深く考えさせられますし、学んだものとちょっと違うんだな、と感じることができます。
教科書で学んだ姿とちょっと違うものを見ることができます。