こんばんわ、トーコです。
今日は、沢木耕太郎の『飛び立つ季節』です。
■あらすじ
この2,3年、私たちは多くの制約がありました。ですが、16歳の時の旅の面影を探したり、壇一雄の墓を訪ねたり。
飛び立つ季節がやってきたかのように、この作品がやってきました。「旅のつばくろ」シリーズの第2弾です。
■作品を読んで
まずは、「旅のつばくろ」シリーズ第1弾です。242.『旅のつばくろ』
そして、著者の他の作品です。41.『旅の窓』、116.『流星ひとつ』。旅の話とノンフィクションの作品です。
ここで、「旅のつばくろ」シリーズとはです。このエッセイは、JR東日本の新幹線車内誌『トランスヴェール』で連載されたエッセイが収録された第2弾です。
この新幹線車内誌『トランスヴェール』に滅茶苦茶救われていたころの話は、242.『旅のつばくろ』で書きまくっていますので、ここでは割愛します。ありがとうございます。
コロナになり、新幹線に乗る機会がめっきりなくなりましたが、こちらの連載は続いていたようです。よかったわ、ちょっと安心しました。
それでは、作品に行きましょう。
のっけのエッセイは、著者がまだ行ったことのない場所を思い浮かべます。それは、会津でした。
茨城県出身のトーコからすると、会津って意外と近い名所だったりするので、数多く行きました。なので、ちょっと意外な感覚です。
そこで、著者は五色沼に行こうと思い立ちます。それから天気予報を見ても大丈夫そうだと思いながら、前日を迎えます。
なんと、天気予報が変わり、予報が急変します。おいおい、と思うのですが、旅の初日の朝、関東地方は雨雲に覆われていますが、今家を出れば、北にむかっている雨雲よりも早く着くのではないか、と。
すごいなあ、その勘。そして、ここからの行動力が凄いです。なんと、朝食をとらずに、東京駅に向かいます。
郡山で下車するので、新幹線やまびこに乗ります。やまびこは各駅停車です。懐かしい、地獄の出張地獄の時に経費削減のため乗った…。
各駅停車で、時にははやぶさの通過待ちのため待たされる時間が惜しくてしょうがない。すごいわかる。
郡山駅に着くと急いで磐越西線に乗り換えて、猪苗代駅へ。それから五色沼へ行くバスの時刻表を手に入れます。
いよいよ待ちに待った五色沼です。最初に見たときはただの湖かと思い、がっかりします。
が、本当の五色沼の美しさを目の当たりにしたときに、著者は圧倒されます。声が出なくなっていますね。
様々な場所を見てきた著者でも圧倒されるのか…。なんだか、もう1度見てみたいなあ。小さいころに見て以来ですからね…。
他にも、男鹿線に乗っている途中の単線のすれ違いのタイミングで、娘さんとすれ違う話が偶然にしては本当によくできている…。
実は著者が秋田の旅が終ったら、奥さんと娘さんにまだ行ったことのない奥入瀬に行ってみないかと言い、新青森駅で集合を約束していたそうです。
どうも、娘さんは著者から聞いた寒風山がどんなところか見てみたいと思い、男鹿線に乗ったそうです。
そんな偶然があるんだ、と読み手は驚くしかない話です。
1番びっくりした話は、携帯電話の話でしょうか。
まず、著者はいまだにガラケーを使っています。しかも、持った理由がびっくり。
外国を旅行していて、行き当たりばったりに公衆電話などでホテルの予約をしようと思うと、名前以外に「あなたのモバイルフォンの番号は?」と訊かれることが多くなり、やがて持っていないと泊めてくれないという事態が起きるようになった。
そこで、外国に行くときのために携帯電話を購入した。
そんな理由でか…、とびっくりしました。まさか、旅のためだとは。続きです。
日常的には机の引き出しの奥に入っているため使うことはなかったが、それでも不自由しなかった。
ところが、あるとき、待ち合わせに遅れそうになり、しかし公衆電話がどこにも見つからず、連絡ができないと困ることがあった。そこで、人との待ち合わせがあり、その前に用事が詰まっているような場合は、携帯電話を、まさに「携帯」するようになった。
トーコが小学生だった時に、我が家に携帯電話が来た時のことを思い出します。電源が切られ、ほぼ使われることのなかったガラケー。
今ではうちの実家の両親もスマホを使っておりますが。
携帯電話を「携帯」するようになった経緯が描かれています。おそらく、この感覚は今どきの若者には分からないでしょうね、きっと。
ところが、そのガラケーも経年劣化で電源がうまく入らないようになっていましたが、放置していました。
ある日のこと、待ち合わせに遅れそうになって携帯電話の電源を入れて電話したところ、つながりません。
この時の著者の表現が秀逸です。
相手の問題ではなく、どうやら、こちらの携帯電話が急病を起こしてフリーズしてしまったか、寿命が尽きてしまったらしい。
携帯電話が急病を起こしてフリーズという表現はぜひとも使いたい。とはいえ、結構慌てます。
そこで、クリーニング店に行くも番地が分からないなら、交番行けと言われ、交番に行きます。
交番でも、電話番号がわかれば電話すればいいじゃんと言われるも、著者が携帯電話がないものですからと返すと、交番の電話を使いなさいと言われます。ようやく待ち合わせのレストランにつながり、場所を教えてもらいます。
令和になってそんなことをする方がいるんだ…、とちょっとびっくりします。スマホの地図が便利すぎるのですが、とっさの行動がとれなくなりそうですね。
エッセイの最後に、このドタバタ劇が「小さな旅」として楽しめるのですから、すごい…。
旅に出られなくてストレスがたまるけど、こうして「小さな旅」という形で楽しんでる…。そういう人生になれば、絶対豊かだ…。
著者は16歳の時に東北一周をしました。その時の宿の記憶や場所の記憶を追いかけています。その旅から50年が経過したとさりげなく書かれていますが、驚きます。この人今、何歳…。
旅の道中は、11泊のうち2泊だけ旅館に泊まりました。それも国民宿舎。1か所が青森の黒石にある落合温泉、もう1か所が福島の二本松の岳温泉。今となっては選んだ理由が分からないですが、安かったのでしょう。
もちろん、何ひとつ記憶が蘇らないし、その時泊まった宿もありません。そんな旅をした後にこう思います、ちょっと長いです。
十六歳の私は、この温泉に泊まって、何を考えていたのだろう。自分の未来をどう夢想していたのだろう。
ふと、彼に会ってみたいな、と思った。
会って、君の人生は悪くないものになるだろう、と占い師のような顔をして言ってあげたいような気がしたのだ。きっと面白い人生を送れるだろうよ、と。
しかし、少年の私が、見ず知らずのオッサンからそんな言葉を投げかけられたら、ありがとうございますと応じたあとで、内心こう思ったことだろう。未来のことなんか、知りたくもない。だって、それこそ、人生が面白くなくなってしまうじゃん、と。
16歳の季節が過ぎ去ってしまい、一体何を感じ、思っていたのかが全く分からない状態です。
タイムマシンに乗ればおじいさんになった私から展望をきっと伝えることができる。人生そう悪くない、と。
だけど、それじゃ面白くないでしょ、というんだろうなと自分の性を想っています。16歳の頃と結局変わらない。
その通りだよな、と思います。未来の自分からこんな未来だよ、って教えてもらうのって、なんだかテレビドラマの展開を先に教えてもらうようなものですからね。
16歳の彼に会うためにはきっと記録をきちんと残さないとダメなんだな、と思いました。過ぎ去った日のことは忘れますからね、人間。
他にも、壇一雄の妻ヨソ子さんを描いた縁から、ヨソ子さんのお墓を再訪したり、小沢昭一の『東海道ちんたら旅』に触発されて著者版の「ちんたら旅」をやってみようと思い立ったり、伊豆に向かう途中で吉永小百合と遭遇したりなど、様々な旅のエッセイが収録されています。
あとがきがかなり印象深いので、引用します。
この二、三年、思いがけないことによって、私たちは多くの制約の中で、生きてこなくてはならなかった。
巣立ちを必要とする若者たちも、暖かい南の土地への憧れを持つ大人たちも、自由に移動することができずに、自分の「巣」の周辺にとどまらざるを得なかった。
できなくなって、初めて、自由に移動できるということのありがたさを思い知ることになった。
だが、春になり、やがて夏が来ようとしているいま、私たちにも、そろそろ飛び立つことのできる季節が訪れたような気がする。
新型コロナウイルスという言葉を使わずに、私たちの制約条件を言います。そして、今少しずつですが、移動ができそうになってきたのではと思うようになります。
なんか、ちょっと励まされるような気がします。
しかし、移動するかどうか自分で判断できる自由は手に入れられたような気がする。自らの責任において、移動をするかどうか判断する、私が飛び立つ季節が訪れたような気がするというのはそういうことだ。
飛び立つ季節の到来を、自由に旅ができるようになったと無邪気に祝するわけにはいかないだろう。
だが、無難を求めて大勢に盲目的に従うのではなく、何事も自らの責任において自らの行動を決する。そんな習慣が、ひとりひとり身につくようになるとすれば、この災厄にも、大きな意味があったということになるのかもしれない。
移動ができそうだ、の本当の意味です。自分で判断する、ここが重要です。何事も自らの責任において自らの行動を決する、という習慣の芽がやっと生まれそうな気がしています。
マスコミはいちいち騒ぎますけど。無難を求める時代は終わってますからね。それがコロナの意味かあ。まあ、時代の波が確実に変わってきていますからね。
自分で判断する、を忘れないようにしたいです。
■最後に
北へ行く旅を主に描いています。途中で、16歳の著者に出会おうと試みたり、壇一雄の妻ソヨ子さんとの出来事等が描かれています。
自由に移動できたことのありがたさを改めてかみしめられ、早くどこかへはばたくなる一冊です。