こんばんわ、トーコです。
今日は、中村紘子の「ピアニストだって冒険する」です。
■あらすじ
3歳でピアノを始め、中学生でN響の海外ツアーでソリストを務め、18歳でジュリアード音楽院に留学。1965年のショパン国際コンクールで入賞。
その後はピアニストだけでなく、国際コンクールでの審査員も数多く行っているという、早々たる経歴の持ち主です。
残念ながら2016年に亡くなっているので、これ以上のエピソードが出てきませんが。
そんな著者の書いたエッセイ集です。
■作品を読んで
第1章は、ピアノとの出会いからある程度大きくなり、近年患った病気のことで幕が下ります。
が、この冒頭ののっけからこう始まります。
ピアニストにとって、人生最大の冒険はどんな先生に出会うか、どんな先生を選ぶか、というところから始まるのかもしれない。
お、おいおい。どんな天才でも、その才能を開花させるほどの力のある先生につかないと伸びるものも伸びないのでしょうな。
天才が合わない師匠のもとでやっても駄目だ、というのだから凡人はもっと駄目だわな。
しかもこれは幼少期から大学生までの間の話であって、プロになったらさらに奥の深い修行が始まるとさらりと言いのけます。
常に自己管理をし、体調を整え、できることなら舞台では持っている以上の力を発揮し、聴き手に届ける。
なんだか、ほとんどこれではスポーツ選手と同じ…。でも、それだけコンディションが良くないと良い音楽を届けられないのでしょう。
もう1つこのエッセイでおお、と思ったのは、冷戦期の旧ソ連圏内への旅行の風景です。
何がびっくりって、西側のツーリスト出禁の時代に、ショパンコンクール入賞後毎年のようにポーランドで演奏していたのだとか。
ホテル事情もすごいのですよ。シーツはごわごわ、バスルームは埃だらけ、食事も品質が悪い。
しかも、これがまさかの一流ホテル。共産主義の功罪はここにあり。
冷戦期にここまで出入りしていた人なんてそんなに多くはないので、この作品で記載されている内容はすごく貴重な気がします。
また、コンクールの審査員等を通して数多くの天才を見てきました。
著者自らも元祖「天才少女」として名を馳せていましたから、なおのことでしょうか、なかなか才能のない人には厳しいです。
10代半ばには国際的に活躍する演奏家としての勝負がほぼ決まります。10代半ばでピアノのオクターブが届かなかったら致命傷です。どんなに才能があっても評価されません。
身体能力もある程度ピアニストは要求されてしまうようです。
著者も身を持って体験していることでしょう。その厳しさが骨身に染みついているがゆえに厳しい批評ができるのだと思います。
最後は、twitterで先につぶやきましたが、矢代秋雄という作曲家のエピソードを語るエッセイで登場するピアノ協奏曲。
一体どんな曲なんだろうな、と思っていたら、まさかその直後のN響アワーで矢代秋雄のピアノコンチェルトが出てくるという偶然。
聴いてびっくりな曲。しかも、ピアニストは河村尚子さんというこの作品にも才能あるピアニストとして紹介された方。
まあ、こんな偶然があるとは、まあびっくり。
■最後に
ピアニストもしんどいことも、つらいことも、予想にもしない若い才能との出会いに、応援してくれる人との出会いなど様々なものがあるようです。
それにしても、この方は本当のプロ中のプロで、息長く活躍できた理由がよくわかりました。
[…] 以前紹介した中村紘子のエッセイ(ピアニストだって冒険する)に旧ソ連時代のホテル事情が書かれていますが、実際に住んでいた人の話は貴重です。 […]