こんばんわ、トーコです。
今日は、小川真如の『日本のコメ問題』です。
■あらすじ
日本の歴史上米不足に悩まされていたのが常でしたが、1967年自給自足米の自給自足が叶いました。
しかし、そこから米余り時代がやってき減反が開始され、やがてウルグアイ・ラウンドによって外国の米が参入してきました。
■作品を読んで
まず米問題について、結構誤解があるように思います。と言うのも、米余り=田んぼあまりと言えるからです。 これは初めて知りました。
現代の米問題を理解しようとするときに、コメと言う物質商品だけでを見るのではなく、田んぼをめぐる問題にも注目していかないといけません。
コメ問題の解決が急ぎ優先した結果、相対的に田んぼの問題が未解決のまま取り残されており、とうとう無視できない状態となりました。
各章の終わりにまとめのページがあるので、それをかいつまんでもわかりますが、全体を通して読んでみてください。分らなかったとき用に覚えていてください。
日本の米政策において転機は4回あります。
1回目が1967年です。この時は日本で米が余るほど作れるようになりました。
米の歴史は縄文時代に米作りが始まり、弥生時代になると北海道を除く日本列島の全域に広がってます。狩猟や最終焼畑よりも安定し食料を調達できる米作りによって人口が増え働き手が増え、さらに新田開発が進み田んぼが作られて米作りが広がります。
1967年に日本の人口は1億人の大台を突破します。そして1967年は米の時給を達成しました。戦前の日本は米が足りていないことが当たり前の時代が続いていました。そこで、領有していた台湾併合としたばかりの朝鮮で米作りのを奨励していました。
1967年以前は米があれば日本人全体として食べる量が増えていく傾向が続いていました。
しかし、1967年以降一定して米があっても食べる量が増えないと言う事状態に陥ると言う決定的な違いがあります。
とは言えこれも初めて知るのですが、なんと100年前から個人の米離れは進んでいます。統計で見ると、コメを食べる量は大正時代の終りから減っています。
頭打ちになっている最高の量と言うのは1923年まだ昭和時代は始まっていませんただし日本全体で見ると人口が増えたので日本人全体が食べた米の量は増え続けています。
しかし1963年には日本人全体で米を食べる量もピークとなりその後は減り続けています。
コメの時給達成と言う話題がインパクトを欠いていたのは、個人のコメ離れは40年も前から始まっており、国民全体の米離れも4年前に始まっていたことも大きな理由です。
米離れの理由は時期によって違いますが、既に小麦食が増えたことです。また、袋麺も当時は次々と誕生しています。
なんと、給食はアメリカの小麦のあまりがきっかけでできた制度です。これもたまげました。どこまでアメリカの影響受け受け続けるのやら…。その間に、どんどん日本は食料自給率が低下していきます。
そして、第二の転換点の1978年を迎えます。
このころになると、税金によって社会全体で米作りを支える要素が色濃くなります。また、減反や生産調整と呼ばれ、現在まで続いていた米を作らせない政策の骨格ができたのもこの年です。
これにより、米余りによって国が赤字が増えてきました。なぜ増えたかと言えば、食管法に基づいて国が買い取る米の値段は、1960年以降高度経済成長で広がった都市労働者と農家の所得格差を埋める意味合いを持ち始めました。
元々食管法は、コメを集めるための法でしたが、経済格差が広がるとコメ農家の所得を守る仕組みと変貌していました。
しかし、コメが足りるようになると、行き先のない米までが買い取ることになり、保管費用等で赤字が膨らむようになります。そこで政府は生産抑制を図るため、減反政策等を始めます。 これが米を作らせない政策の始まりです。
とは言え、本当の意味では、米を作らせない政策は強制ではないです。田んぼはコメ専用だけでなく、米を作らない田んぼ新たな方向性を模索されることになりました。
国はご飯以外の米づくりを支援して解決の糸口を模索するも、本格的な法制度は作らず、余った田んぼの方向性は定まらない状態が続きます。
そして、一方で米をより自由に売買したいと国内外の声が高まっていきます。決定的に影響を与えたのは市場開放の声です。
1993年に第三の転換点を迎えます。
1993年にGATTのウルグアイ・ラウンドが締結されます。貿易自由化をの波から漏れてきた日本の米は、一転して市場を解放することになりました。
農業政策の国際ルールも作られ、自国の目標や政策を自由に考えることのできる時代の終わりを迎えました。
そしてこれを機に、国内では食管法が廃止され、コメは国による管理・流通から基本的に解放され、コメはより自由に扱えるようになります。
例を簡単に言うと、今までコメはコメ屋でしか買えなかったんですが、今ではスーパーマーケットで米が売られるようになったのもこの頃です。
第二の転換点では米と田んぼを別々に考える必要がありました。
しかし、第三の転換点では、コメと田んぼを別々に考えるというよりも、流通の規制からコメを解放したり、大規模なコメ農家を選別して支援したりすることで、結果的に田んぼがよりよく使われるという、コメを中心とした考え方に過ぎませんでした。
そして2008年の転換点として、今度は余った田んぼに対する補助金を多くすることによって米作りをコントロールする方法が採用されることになりました。
2008年以降の田んぼ余り対策は、水田フル活用って呼ばれますが
- コメを作らせない政策の別称
- できるだけ広い面積の田んぼを使うこと
- 同じ田んぼにできるだけ多くの作物を得る
という3つの意味を含みながらそのバランスが変化していきました。そして現在では「コメを作らせない政策の別称」と言う意味合いを強めています。
第四の転換点で誕生した水田フル活用の思想は、ご飯用の米を作らせないための補助金を増やす口実として遺憾なく効果を発揮する一方で、田んぼ余り問題を解消するには至りませんでした。田んぼ余りの問題の悩みを減らすため、田んぼを減らした米農家への手切れ金も渡たしたにもかかわらず。
しかし、田んぼ余り問題の根本的な解決策は未だに出されていません。つまり田んぼ余りとは、現在まで引き継がれた大きな未解決問題でもあります。
余っているからこれから先も水田利用を減らさないといけないんだね、と思うでしょうが、違います。
第六章では、現代のコメ問題の根底を見ていきます。
時代を経て様々なコメ政策を打っていますが、本来であれば食糧安全保障と言う観点からきちんと生産したほうがいいなと個人的には思います。
しかも農林水産省は、2017年から荒廃を除いて農地が減った理由を細かく調査しなくなりました。また、2020年の農林業センサスは、田んぼの使用状況を詳しく調べなくなったほか、耕作放棄地も把握されることがなくなりました。
こうして余った田んぼや畑の使われ方、耕作放棄地といった全体の動向は、ここ5年ほどで急速に専門家でも把握しにくい状況になっています。
今米政策がかなり限界に近づいています。それは田んぼ余りの悩みの多くは、田んぼがなくなることで解消されていますが、実質的に食料安全保障や農業農村の多面的機能の脆弱かと言う悩みも出てきました。
問題が問題を生んでます。田んぼの問題は、畑を含めた農地全体や国土利用にも目を向けなければならない問題でもあります。
第七章では、第5の転換点の2052年について触れています。まだあるんかい、と言いたくなるでしょうが、これはまだ未来の先のことですね。
実は、今現在の日本では有事における飢饉の発生や海外からの飼料輸入が途絶した場合、必要最低限とされる一人当たりのカロリーキロカロリーを供給する事は難しくなっています。しかも、外務省が言ってます。つまり、食料安全保障から見て、日本の現状では農地が足りていません。
しかも、農地は一度途絶えてしまうと復旧に時間とお金がかかります。また復旧ができても、農家や農業技術の継承が途絶えたり、農業機械をすぐに準備できなかったりすれば、いざと言う時に農業を速やかに再開できません。
2052年は、「食料安全保障上、必要な農地」と「実際の農地」の面積が逆転する年になります。人口が減る影響ですね。人口がこれからも増え続けるとそうもいきませんね。
そこまでにどうやって支えていけばいいのか、1人1人の意識、主観が重要になってきます。コメ問題にちゃんと意識し続けること。
■最後に
コメについて発見の多い作品になっています。
コメが単純に余っているところから、田んぼが余り、そもそも有事の際に食料が手に入るかという点も問題です。
当たり前に手に入らなくなったときには遅い話です。ちゃんと注視しないといけませんね。