こんばんわ、トーコです。
今日は、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『パープル・ハイビスカス』です。
■あらすじ
15歳のカンビリは、厳格なクリスチャンの父親のもとで育てられます。
ある日、大学講師をしている叔母の家に兄とともに泊まりに行きます。そこでは自分の家とは全く違う価値観を知っていきます。
■作品を読んで
まずは、これまでに紹介したチママンダ作品です。
120.『男も女もフェミニストでなきゃ』。TEDのスピーチがもとになった作品だったはず。
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェは、ナイジェリア生まれで、父親はナイジェリア初の統計学の教授で、母親はナイジェリア大学で女性初の学籍簿係を勤めた人のようです。
ナイジェリアでもかなりの知識人階級の家のようで、兄弟姉妹で理系でないのは彼女だけという一家です。まあ、ナイジェリアの大学に通っていた時は医学と薬学を学んだようですが、19歳でアメリカに行き、そこではコミュニケーション学と政治学を学びました。
2003年にO・ヘンリー賞をとってから世界中から注目されるようになります。
この作品は彼女の長編デビュー作でもあり、アメリカにわたってからのホームシックから逃れるために書いたのだとか。
ホームシックの紛らわしでこの作品が生まれたって、どんだけの才能の持ち主…。すごすぎます。
そんなところで、作品に行きましょう。
物語は、兄ジャジャが聖体拝領を受けなかったところから始まります。えっと、わかりやすく言うとカトリック教徒になることを拒んだ、ということです。
15歳の少女カンビリは、地元の名士である父ユージンと母、兄のジャジャと暮らしています。
父親は、超厳格なカトリック教徒で、カトリックを信じない自分の父親(カンビリの祖父)すら異教徒入れるまじ、というくらいで自分の実の父親まで嫌っていました。
さらに父親は事業に成功し、会社や工場を持つ傍らで新聞社で革新的な新聞を発行していましたというくらい、絵に描いたように素晴らしい人物です。
しかし、家のなかではかなり姿は違います。子供たちには常に学校の成績は1番でいろ、と強要し、母親も父親からの度重なるDVで何度も流産を繰り返しています。
何てったて、2番を取った後の最初の始業式の日に父親が1番を取った子はどれだ、と言いながら学校に行ったのですから…。
私だったら家出します。無理、そんな父親。
しかも、父親が神の信仰を口実に子供たちにもなかなかに虐待まがいのことをしています。正直なところ、カンビリの家庭環境は恵まれているとは言い切れない状況でした。
そんなあるとき、父親の妹であるイフェオマおばさんの家に泊まりに行くことになります。
父親は子供たちに時間割を持たせますが、おばさんが没収し、初めて父親から解放されたひと時を送ることになります。
イフェオマおばさんは大学で講師として働いており、夫を事故で亡くした後は1人で3人の子どもたちを育てています。
カンビリと同じ年のアマカという女の子、14歳で兄のジャジャより年下なのに一家の男として奮闘するオビオラ、末っ子のチマ。
家は大学内の教師用のフラットでカンビリの家とは比べ物にならないくらい狭く、大学から給料が払われないこともあり経済的に豊かとはいえないけど、家のなかは笑いや歌にあふれている自由な環境でした。
とはいえ、最初はアマカはお嬢様育ちのカンビリにいい印象は持っていなかったのですが、次第に心を開いていきます。
さらに、父親ユージンとイフェオマおばさんの父であるパパ・ンクゥにも自由に会えます。いつもは父親の息のかかっている運転手によって監視され、15分くらいしか話せないのに。
2回目の泊りの時は、パパ・ンクゥの死が近かったので、パパ・ンクゥもイフェオマおばさんの家で暮らし、亡くなります。
そして、もう1人のキーパーソンは、アマディ神父でしょうか。アマディ神父は頻繁にイフェオマおばさんの家を訪れます。
また、アマディ神父もカンビリに好意を持ち、カンビリをサッカー場に連れて行き思いっきり走らせたり、髪結いに連れていきます。
そんなアマディ神父に淡い恋心を抱くも、アマディ神父はカトリックの神父のため、恋愛はご法度です。って、アイドルか。まあ、実際に今もそうだから仕方ない。
アマディ神父と一緒にスタジアムに行った時のこと。アマディ神父は少年たちに棒高跳びを指導しているのを見て、カンビリはこう思います。
どんどん棒を高くしていくのとおなじように、おばさんはいとこたちに話しかけ、期待した。おばさんは子供たちは自分で目標を高く設定していくようになる、といつも信じていた。そして実際そうなった。ジャジャとわたしはちがった。棒を高くしたのは自分たちができると思ったからではなく、できなかったら恐ろしいことになるので棒をあげていたのだ。
棒を目標と読み替えればもっとわかりやすくなるでしょうね。
目標は自らの力で高く設定しなければならないもの。イフェオマおばさんは常に子供たちに話しかけ、要所要所でアドバイスや励ましをしているんだと思います。
カンビリやジャジャはちがいます。厳しすぎる父親のおかげで、できなかったらどうしようという常にマイナスの感情に支配されています。
さらに、アマディ神父にこう聞きます。「少年たちのことを信じてますよね」。神父はこう答えます。「疑問を抱かずに信じられるなにかがぼくには必要だから」
カンビリは、気づき+呆然としてしまいます。アマディ神父の飲む水になりたい、と思う始末。まあ、はっきりとアマディ神父を意識した瞬間でもありますけどね。
カンビリはこうやって気が付いた結果、本当の意味で自由になっていきます。トーコはそう感じました。
最後にイフェオマおばさんの家に行ったときは、イフェオマおばさん一家がアメリカに移住する寸前の頃でした。おばさんがアメリカで就労できる見込みが立ったからです。すげーわ、大学講師。
さらに、アマディ神父もドイツに行くことになっていました。すごい、同時にみんな消えていく…。
こうした日々をカンビリと兄のジャジャは過ごしました。聖枝祭がやってきて、兄のジャジャは聖体拝領を受けませんでした、という場面に戻ります。
これで冒頭部との糸が見えてきましたね。2人ともイフェオマおばさんの家の空気を吸い、自分たちを締め付けていたものから少しずつ意志を持って解放していったのですからね。
ここからオチバレが入りますので、ご注意ください。
そしてその変化は母親にも訪れます。物語の終盤で父親のユージンは死にます。司法解剖の結果、毒殺でした。
母親はおもむろに、父親のお茶に毒を入れるようになった、と告白します。それから数時間後警察がやってきて、兄のジャジャが「僕がやった」と言って逮捕されます。冤罪なのに…。
最終章では、兄が刑務所に入ってから31か月が経過した世界からスタート。兄はようやく保釈される見込みが立ちました。
イフェオマおばさん一家もアメリカに行き、停電やお湯が出るようにはなりましたが、忙しくなり、みんな笑わなくなるようになります。
カンビリとアマディ神父との文通も続いています。カンビリはアマディ神父からの手紙をちゃんと持ち歩き、アマディ神父はカンビリのことをつらつらと書いているという、見方を変えればラブラブな2人でした。アマカはラブラブじゃん、と突っ込んでますけど。
抑圧された環境で生きてきた少女が、環境を少し変えることで、自分の人生を生き、自分を肯定することができるようになります。
それは、カンビリだけではなく、家庭、学校、大人なら会社に縛り付けられている老若男女問わず、大なり小なりあると思います。
なにか自分のなかの壁を越えられるかもしれませんね。
あ、パープル・ハイビスカスの下りは作品を読んで探してくださいね。文字数がもうない…。
■最後に
裕福だけど厳格な父親の元で育てられ、自分を抑圧気味だった少女カンビリが、叔母一家やアマディ神父との交流を通して、少しずつ自分を肯定できるようになります。
世界は彩り豊かなものであふれています。私たちは、時に忘れそうになっています。忘れちゃ、だめだ。