こんばんわ、トーコです。
今日は、遠藤周作の『善人たち』です。
■あらすじ
この作品はアメリカに留学した牧師志望の日本人が味わった善意について書かれている表題作。
信仰と政治処世のはざまに揺られる「切支丹大名・小西行長」、遠藤版聖女伝をより進化させた「戯曲 わたしが・棄てた・女」
何か心に揺さぶりかける作品がそろっています。
■作品を読んで
まずは、これまでに紹介した遠藤周作作品です。
遠藤周作作品は、なかなか心をえぐってくるものがあるのですが、今回はかなり身近なところでもありそうなことを描いているような気がします。特に、「切支丹大名・小西行長」の章ののっけからそう思わせてくれます。
いずれの作品も、毎度ほぼお馴染みなのですが、キリスト教信仰に根付いたものを感じさせます。そういう作家だから仕方ないのでしょうが。
では、作品に行きましょう。
まずは、表題作「善人たち」です。戯曲なので、登場人物のセリフがわかりやすいです。展開も追いかけやすい気がします。
第1幕で、第2次世界大戦時の戦闘の場面からスタートします。そこでは従軍牧師のトマス・ロジャースが日本兵の隠れている穴に向かって呼び掛けています。
穴の中には、アソ・コウキチがいるはずです。彼とのつながりは、コウキチがアメリカ留学した時のホームステイ先がトマス・ロジャースの家でした。つまり、2人は知り合いだったのです。
トマス・ロジャースは、撃たないから出てきて欲しいと呼びかけます。
第2幕では、日米戦争の始まる1年前で、すでに日中戦争が起こっているときのことでした。
そんな状況下でアソ・コウキチは牧師になるべく、アメリカ・オールバニーに留学します。トマス・ロジャース(以下トム)は、コウキチのホームステイ等の面倒を見ていました。
その一方で、妹のキャサリンは銀行員のフレッドと婚約し、結婚式の日を決めようとしていました。しかし、キャサリンは杓子定規なフレッドと結婚していいものか迷っていました。
同時に、ジェニーという姉がニューヨークから戻ってきます。彼女はニューヨークで男に捨てられ、出産するも子どもは亡くなります。
しかも、今野という日系2世の刑事から、ニューヨークに赴任していた時に警察でジェニーの面倒を見ていたことも伝えられます。ジェニーは今でいうところの客引きでしょうか、水商売に手を出していました。
トムの家は敬虔なキリスト教徒の家でした。なので、トムにとってはジェニーの存在は重く、邪魔な存在なのでした。一方で、なぜ牧師になりたいからと言って日本人を受け入れているのかも近所から好奇の目で見られてもいました。
さらに状況を悪化させます。日本が何の宣戦布告もなしに真珠湾を攻撃し、日米戦争が開戦します。
コウキチは戦争に加担したくないので、米国に残ることを希望し、トムが議員に連絡し、残れるよう図りました。
しかし、実際は違いました。今野が現れ、コウキチは米国に残るのではなく、サンフランシスコに行き、日本に強制送還されることになっていました。
そのわけをキャサリンが話します。
やめなさい。キャサリン、ぼくはそれをコウキチのためにしたんだ。そう言いたいのね、兄さん。ぼくはやはり、コウキチがこの米国で米国人に憎まれて生きているのを見るに忍びなかった。だから電話をかけなかった。そう言いたいんでしょう。兄さん。
嘘よ。勿論、兄さんにその気持がなかったとは言えないわ。でも心の底ではね、兄さんはコウキチが重荷になったのよ。このオールバニイの町の人々が彼を嫌いはじめ、そして兄さんは孤立した。やがてオールバニイの町で牧師になる兄さんは、皆の信用を失いたくなかったのよ。ちょうど銀行員のフレッドが信用を失いたくないため、わたしと別れたように、兄さんはコウキチを見棄てようと思った。彼が米国に残ると、兄さんは自分の良心のために彼を守らなければならない、それが兄さんには重くなったの。だから、日本に彼を送り返そうとしたのね。
ちょうどジェニーの今後を考えて、この家から追い出したようにね。そして兄さんはこう言うの。ジェニー、これからもぼくは君の救いのため祈っているよ。だからコウキチにも言うといいわ。コウキチ、ぼくは祈っているよ。ふたたびぼくらが会えるように。
なんと、トムが、コウキチの強制送還の前に議員に連絡するはずがやっていなかったというまさかのオチ。
トムは、自分の良心のことからコウキチを家に泊めていたのですが、コウキチを家に泊めることで町の人の信用は失いたくないとの間で揺れていました。
一方で、キャサリンは、キャサリンと結婚することでフレッドの信用が失墜する可能性があり、フレッドが結婚に二の足を踏んでいたこともわかっていました。兄の姿はフレッドそのものだったのでしょう。
さらに、ジェニーも結局追い出しています。これも自分の信用を落とさないようにするためです。妹は兄の見事に痛いところをついていました。
コウキチはトムに見事に裏切られ、失意の中日本に強制送還されることになってしまいました。
最後に冒頭の戦闘下の場面に戻されます。たいていの読者はこの場面がちがったものに見えてくるはずです。
かつて自分を裏切った友に呼び掛けられても、コウキチにとっては今の仲間たちがコウキチの世界です。神学がどうのこうのという問題の以前に。
そうして、洞穴は焼かれたのでした。
次の話の「切支丹大名・小西行長」もかなりすごいです。のっけから、切支丹大名たちはピンチを迎えます。
切支丹大名たちが集まっているところに、関白秀吉が現れます。秀吉は、少年たちによる美しい聖歌を聞いた後にこういいます。
キリスト教という邪宗を棄てるか、秀吉を選ぶか。秀吉を取れば出世が約束され、切支丹を取れば即刻所領、軍臣は没収といきなり言います。
切支丹大名たちは、まさかのいきなりの大選択を迫られます。切支丹大名は5人ほど集まっていましたが、高山右近はキリスト教を取ります。なので、領土、家臣はすべて没収となります。他は皆秀吉を取ります。小西行長も然りです。
それから、行長は朝鮮出兵で最前線に立って戦ったり、石田三成にくみし、細川邸を攻撃し、細川ガラシャの死に遭遇したりします。
やがて、関ヶ原の戦いで西軍として戦ったため、捕らえられ、斬首ののちさらし首にされます。このころには切支丹からも恨まれる存在になっていました。
行長は、一国の主としての振舞いと本人の信仰の自由とのはざまで揺れ動いていました。簡単に民を投げ出せれば苦労はしなかったことでしょう。しかし、国を治めている以上は個人の信仰だけで決めることは出来ませんでした。
この揺れ動きは、戯曲の要所要所で挿入されています。そのたびに葛藤していますが。
この作品は割とわかりやすく、信仰とのはざまで揺れ動く主人公の想いが1番伝わってきます。
矛盾だらけの世の中を生きていかなければならないけど、自分の核となるものは何なのか、を突きつけられている気がします。
■最後に
遠藤周作の死後しばらく経ってから出てきた未発表の戯曲です。これは一体どんな芝居になるんでしょうかね。
信仰と現実世界のはざまで揺れ動く主人公たちを描いています。自分が可愛いのか、自分の役割を精一杯演じるのか、自分の信仰にまい進するか。
それぞれの答えがあります。その答えは状況等によっては様々になり、正解がわからない今の世には必要なことがあります。
ものすごく考えさせられます。