こんばんは、トーコです。
今日は、藤沢周平の『一茶』です。
■あらすじ
小林一茶は、生涯で約2万の俳句を残しています。
しかし、生前はほとんどの時期を貧しい中で過ごし、晩年はかなり荒業でしたたかに生きていました。
そんな男の生き様を描いています。
■作品を読んで
まず、これまでに紹介した藤沢周平作品です。
6.『海鳴り』、54.『花のあと』、176.『漆の実のみのる国』
6はオリジナルの時代小説、54は短編、176は本作品と同様歴史上の人物を描いています。こちらは、上杉鷹山です。
藤沢周平の時代小説といっても、さまざまな文庫から出版されていますので、ご興味ある方はいろいろと読んでみてはいかがでしょうか。
といいつつ、当ブログで紹介した作品はすべて文春文庫だったりしますが…。
それでは作品に行きましょう。
物語のスタートは、一茶(幼名弥太郎)がふるさとの長野から江戸に向かう場面から始まります。
というのも、実母に2歳で死なれてしまい、8歳の時に新しい継母がやってくるも仕事ぶりやら、性格の不一致で一つも合う部分がなく、家の中はぎくしゃくしていました。
なんせ、家のなかが継母と弟仙六 VS 祖母と一茶のような状態でしたが、祖母が亡くなり、どっちの味方に付くこともできなかった父親が一茶を江戸に追いやろうとします。その通りになるのですが。
まあ、継母がいうことを聞かない一茶を折檻したそうなので、折檻って軽く虐待が入るかもしれないが…。
出立の時、15歳の一茶はこう思います。
性分の違いだ。
と弥太郎は思った。
(中略)
気質が合わないための、無用の諍いだった、と弥太郎は思いはじめていた。それは、家を離れて、はじめてわかったことだった。江戸に行くと決めたこと、弥太郎は悔やんでいなかった。行き場のない袋小路から抜け出した開放感がある。そして、父には言えないことだが、俺は百姓仕事が好きではなかったとも思った。
まあ、いいようにとらえるとこうなるらしい。けど、そう思ったほうがのちの小林一茶は生まれたなかったのだから、そう考えるとすごい。
15歳は出発の時に悟ります。百姓仕事に全く向かない性格で、百姓仕事が性にあう継母と対立するのはある意味、必然。このまま残っても何もいいことがないなら、いっそここで出ていくのが1番と思って。
しかし、一茶は奉公先をすぐに出てしまい、江戸の町に消えてしまいます。時折父親は人づてに一茶の様子を聞いて回りましたが、行方不明の知らせしかありませんでした。
一方の一茶はというと、三笠付けという遊びで金を稼いでいました。
ここで、三笠付けとは、貞享から元禄時代にかけて流行った句合わせの遊びでした。句合わせというのは、俳諧の師匠が下の句を出し、参加者が上の句を詠むという遊びです。
ぱっと読めば、俳句の下の句に上の句をつけるってかなり難しくはないか、と思われることでしょう。なので、時代を経て、上の句を出してから、中の七字、五字をつけるという風に変わりました。
で、しかも集まった句に点数をつけ、商品や金を与えたので、市民の心をあおり、俳句を考えることを本業とする人間も現れます。
なので、江戸幕府は俳諧をかけ事とみなし、お触れを出して度々禁止にしていました。
それからも三笠付けの興行は続けられ、一茶が始めた当時は川柳が流行ったので、また上の句を出してから下の句をつける形に戻っていました。
一茶は俳諧を習ったことなく、まじめに働くことに全く向いてなく、三笠付けの興行で稼いでいました。
そんなある日、俳諧の宗匠露光に声をかけられ、俳諧師として生きる道を教えてもらいます。
当時の俳諧師は、俳諧好きの旦那衆の下に滞在しながら全国各地を回り、わずかな弟子や江戸から来た俳諧師を歓迎し、いくばくかのお金をいただくという仕組みでした。
一茶は、そのころの奉公先に恵まれつつ、俳諧師として独立すべく動き出します。古典や風俗等を勉強しつつ、全国各地を行脚します。
その日ぐらしはできるものの、決して裕福ではない暮らしでした。
やがて、父親が亡くなり、故郷の長野に戻ります。ここで、生活の安定を求め、なんと腹違いの弟と遺産相続でもめます。
15年以上もめたそうです。なんちゅう、執着よ…。怨念がこもりすぎていて、超ドン引きしました。そんなところにエネルギーを使わんでも…。
といいつつも、地元に根を下ろしつつ、一茶の流派を見事に作り上げます。
地元の支援者たちが、最初の妻の菊を連れてきます。彼女は一茶との子供を2人産みますが、子供と菊はなくなってしまいます。
2人目の妻には今でいうところの介護をさせられたため、逃げられます。
3人目の妻やをは子供をつれ、一茶をかいがいしく面倒見ます。なんと、一茶が60代の時に子供を身ごもるも、その前に一茶はなくなります。急死に近い死に方のようでした。
まあ、一茶が死ぬ前に家が火事で焼けてしまい、遺産相続で手に入れていた土蔵で暮らしており、一茶はこの土蔵で亡くなりますが。
著者の藤沢周平は、一茶のことをこう評しております。
一茶はわれられにもごくわかりやすい言葉で、句を作っているからだろうと思う。芭蕉や蕪村どころか、誤解をまねく言い方かもしれないが、現代俳句よりもわかりやすい言葉で、一茶は句をつくっている。
(中略)
…、つまりわれられの本音や私生活にごく近似した生活や感情を作品に示した、一人の俳人の姿を発見するのである。
こういう一茶を、まず普通のひとと言っていいであろう。
2万句の俳句を詠み俳聖とも呼ばれていますが、生活や日々の感情を作品に入れてみるなど意外と普通の人である一面を見せます。
まあ、執着がすごいんだと思います。人並み以上に。
意外と俗物なんだなあ、と思わせる一面もありますね。
■最後に
2万句を詠んだ小林一茶の生涯を描いています。
平凡な生活や感情を吐露した句は後世に生きる人間にもわかりやすい言葉で書かれています。俳聖と呼ばれた割には俗物感MAXな一茶です。