こんばんは、トーコです。
今日は、今野元の『マックス・ヴェーバー』です。
■あらすじ
マックス・ヴェーバーといえば、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でおなじみです。
そんな人物の生涯を描いています。
■作品を読んで
ちょうど同時期に、中公新書でもマックス・ヴェーバーをテーマにした作品が出版されたので、X(旧twitter)上はキャッキャしたのを記憶しています。
というのも、2020年がマックス・ヴェーバー没後100年だったというのもあり、偶然にも刊行が重なったのでしょうね。
トーコ個人としても、マックス・ヴェーバーという存在はいろいろと無視できません。
なぜなら、大学1年の必修の社会学がまさかの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』というヴェーバーの最大にして最著名な著作についての講義でした。この作品の中身を理解するのがまあ難しい、難しい。
おそらくあれが人生No.1級の理解の大変さでした。中身を理解するためにまさかのインターネットで解説を読んで初めて中身を理解してました。
存外成績は良かったのですが、それをしなかったら単位落としてただろうなあ、と思ってましたから。
というわけで、個人的にも思い入れが違う意味である、マックス・ヴェーバーという存在を書いたこの作品の中身を見ていきましょう。
著者はあとがきで、こう述べています。
私はヴェーバー研究の「伝記論的転回」を提唱している。…作品解釈に没頭する従来の研究手法を転倒させ、書簡などを用いてヴェーバーの生涯を整理することにした。
まあ、一般人からすると「はあ」な話ではありますが、研究者ベースでみるとこのような状況のようでした。なんで、著者がチャレンジしてみたとのこと。
まず、第1章。マックス・ヴェーバーは、1864年のドイツで生まれました。日本でいうと、江戸時代の終わりですね。
何と、マックス・ヴェーバーの誕生は新聞広告に出ちゃいました。というのも、父マックスは自由主義の政治家といういわゆる有力者のためもありますが、いずれにしても新聞に載っちゃいます。
そんなマックス・ヴェーバー君は、大学に入り、プロイセン軍(当時のドイツはプロイセンです)に入隊し、博士号を取ります。
いわゆる、生い立ちから就職するまでを第1章で描いています。
第2章では、法学博士号と教授資格の取得を描いています。
当時のドイツの大学は、講義を受けて何とか卒業論文を作成する場ではなく、学生もきちんと研究することが前提でした。なので、博士号として論文を書かなければならないという状況でした。
加えて、並行して法曹実務も行っていました。それは記録に残っているようです。裁判所で実務を積んでいました。
さらに言えば、当時のドイツの大学は博士号を取得しても、教授になれません。なので、教授資格取得のため、教授資格論文を取るべく動かなければなりませんでした。教育制度が違いすぎてビビる…。
ヴェーバーは、法学で教授職に就きましたが、次第に経済学も織り交ぜた講義を行います。就任したハイデルベルク大学では、完全に経済学の講義しか行っていません。
しかし、多忙のせいか神経衰弱になりました。1900年には、常勤正教授職を退くことになります。この神経衰弱により、定期的な授業ができないという理由です。とりあえず、名誉教授職を得、半分引退状態になりました。
第3章です。第3章は、100ページくらいの分量と、おそらく最大の文章量になります。
冒頭でヴェーバーはアメリカに行く機会を得、渡米します。そこで見たものは、自由闊達なアメリカ人の姿でした。
そこから、禁欲的なプロテスタンティズムが背景にあるのではと思い、帰国後に自分で編集している雑誌に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を掲載します。
のちに1920年に改訂版が出版されますが、おおむねの内容はこの時点である程度出来上がったのだと思います。って、出版された年がまさかの亡くなった年って…。
もともとヴェーバー自身は第1章でも触れられていますが、信仰に対しては両義的でした。没入はできないけど、それなりに尊重するという態度で。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はそんなヴェーバーだからできた批判もあるのだと思います。今なら宗教に関する概念は自由ですが、この時代はそれなりに苦労もあったようです。
1904年には、『社会科学・社会政策雑誌』を何人かとともに編集するようになり、やがてドイツ社会学会を設立します。これは既存の組織からの独立的要素もはらんでいます。ここから、国内の著名な学者たちの攻撃というか、批判めいたことがいろいろと始まります。
その後、「世界宗教の経済倫理」を発表し、様々な学問を融合した普遍史の編纂を行います。これを機に社会学者としても呼ばれるようになります。
第4章は、いろいろと一変します。第1次世界大戦が勃発です。
軍に従事した後、学問の世界に戻り、いろいろと理論を展開していきました。1917年ごろには、内政改革論議に没頭していました。
いかにドイツ人の戦闘能力を最大化するためにはどうすればいいのかを考えていました。その中にはまさかの普通選挙制度の導入や議会機能の強化もありました。
しかし、革命が勃発し、ヴァイマール共和国ができます。そのころもまた様々な論文を執筆します。同じころ、貧窮に達したのか、大学で講義を受け持ちます。その中で「職業としての政治」の講義を行い、のちにこれが書籍化されます。
1920年に亡くなります。56歳でした。
最終章は、アドルフ・ヒトラーとの対比が出てきます。というもの、角度を間違えなくても本質的には2人とも同じようなことを主張しているからです。というか、最終章を読むとこの作品が言いたいことを見事に要約しています。
ただ、時代ややり方を間違えると片や戦争犯罪人、一方は歴史を変えた学者になります。なんという皮肉…。
■最後に
ある意味、ヴェーバーはドイツが1番隆盛を極めていた時代の申し子だったんだなあと思ってしまいます。
とはいえ、社会学はこの人がいないと始まらなかったのだと思うと、この人の戦いは無駄ではなかったんだなあと思わずにはいられません。