こんばんわ、トーコです。
今日は、千葉雅也と國分功一郎の『言語が消滅する前に』です。
■あらすじ
著者のお2方は、哲学者でもあります。この作品は、2017年以降の2人の対話が収録されています。
それぞれ独立して企画されたもので、5つの対話を貫く共通項はないはずなのに、偶然にもどの対話でも言語を論じていました。
しかも、言語が何らかの方法で消滅しようとしていることへの危機感が描かれています。
2人は一体どんな対話を展開していたのでしょうか。
■作品を読んで
タイトルだけ読むと、「なんだそりゃ、言語がそう簡単に消えるわけなかろうよ」と思う方も多いと思います。
で、ひと言で要約して、言われるととてつもなく難しいです。
スタンプや絵文字でコミュニケーションが取れるようになってしまった今、言語のめんどくささが際立ちます。しかし、それでも言語は必要で、言葉を磨く必要があると思います。それがトーコの結論です。
それでは、実際に展開された2人の対話を見ていきましょう。以下は、作品の構成です。
- 第一章 意志は存在するのかー『中動態の世界』から考える
- 第二章 何のために勉強するのかー『勉強の哲学』から考える
- 第三章 「権威主義なき権威」の可能性
- 第四章 情動の時代のポピュリズム
- 第五章 エビデンス主義を超えて
『中動態の世界』は國分功一郎の、『勉強の哲学』は千葉雅也の著作です。第一章、第二章は互いの本の刊行記念の対談です。
では、第一章。中動態という謎の言葉が出てきました。これは、受動態や能動態の仲間で、中動態から受動態へと取って代わられたという歴史がありました。
まあ、中動態も消滅したのでしょうね、言うなれば。
ここで、2人は哲学の定義についてこういいます。これは、國分功一郎さんパート。
哲学って心理を究めることじゃないんですね。何か問題があって、その問題に応えようとして悪戦苦闘する中で何か新しい概念を作る。あるいは既存の概念を利用する。哲学というのは問題の発見に始まるこのプロセスだと思うのね。
(中略)
哲学において大切なのは真理じゃなくて、問題とそれに応える概念だと。
つづいて、受けた千葉雅也さんパート。
問題を立てるのは、すごく基礎的なことですからね。というか、人ってなかなか問題を立てようとしない。問題を立ててしまうと気持ち悪いから、みんな問題を見ないようにしている。
(中略)
まず問題を立てることの気持ち悪さというか、ある種のマゾヒズムに引き込む必要がある。哲学教育はそこが難しいんじゃないですか。
哲学の本性と問題を立てるということについて触れています。
確かに、問題を立てることって積極的にしないですよね…。これは哲学に限らず、社会に生きる一般人にとっても切実な問題だと思います。
問題を立てるという行為も十分気持ち悪い中で、しかも日常を送らないといけない。そことどう折り合いをつけるかを1人1人学んでいく必要があります。
問題を立てるという気持ち悪いもさることながら、問題が解決しないということもトーコにとっては十分気持ち悪いことに分類しています。
逃げてはいけない、ちゃんと折り合いつけて問いを立てつづけていきたいです。
第二章は、『勉強の哲学』の刊行記念時の対談です。
現代は、孤独がなくなっています。ここでいう孤独は、私が私自身と一緒にいられることです。ハンナ・アーレントの説を引用しています。
孤独な経験がないから、人はすぐに寂しさを感じてしまう。そして、孤独はずれているときに起こるんです。世の中からズレているとき、なぜ自分が考えていることと感じていることを周りの人はわからないんだろう、と思う。それはまさしく自分自身と対話するということです。
つまり、勉強することがズレることだとすれば、それは最終的に、孤独をきちんと享受するようになることだと思うんです。
この前に、勉強することはキモくなり、ずれていくことだと述べています。上の引用から、孤独と勉強は密接につながっていることがわかります。
自分が考えていることを他人に理解してもらえず、寂しさを感じると思うんです。人によっては、孤独というよりも苦しみに近いかもしれないです。
この経験が足りない人が多いようです。そりゃそうですよ、SNSの発達でつながりまくりの世の中で、「仲間」や「つながり」が簡単に得られるのですからね。
孤独の重要性が忘れ去られてしまう可能性の方が高いですよね。孤独と勉強のつながりを今一度確認していきたいところです。
この後に、「権威主義なき権威」について触れます。
権威とは、アーレントの言葉を借りれば説得と暴力の間をの間にあり、人が自由を保持しつつ服従するということです。
2人としては、90年半ばから権威の崩壊は始まっていたと言いますが、権威が崩壊した結果が目に見えるようになって初めて気がつくこともあります。
権威が崩壊した結果、何を大事にしたらいいのかがまったく分かっていないオジサンたちが政治をやるという壊滅的状況が生まれます。むしろ文学ではなく政治において権威が崩壊したわけです。
(中略)
一人一人に何ができるのかと言ったら、勉強をして、権威主義とは違う形で権威とは何なのかを体得していくことに尽きるんですよ。
こんな世の中だからこそ、読んで欲しいし、意味を分かって欲しいのですね。勉強の意味を。
第三章では、まずコミュニケーションについて触れていきます。
インターネットの爆発的な普及以降、他人の目を気にして忖度するようコミュニケーションが増えていきます。
ムラ的なものが広がり、過剰に空気を読み合う状況を生み出し、過剰に空気を読み合う状況を生み出し、コミュニケーション付加価値みたいなものをアピールできるかの競争、コミュニケーション資本主義の競争が強まっていきます。
いや、その通り過ぎて二の句が継げません。
コミュニケーションが過剰になった世の中で、溢れているポピュリズム的なものとどう対峙するかというテーマでお送りしました。
第四章では、『中動態の世界』も『勉強の哲学』も実は言語論について扱っていることに触れます。
ここから、言語の性質が20世紀とは異なっていることを指摘します。
20世紀の言語は、言語の次元が大事でした。しかし、21世紀になると、コミュニケーションが必ずしも言語に依拠せず、情動的なものになってきます。
LINEのスタンプ、絵文字で十分コミュニケーションが取れることがわかったのですから。同時にメタファーや無意識が弱体化します。
現代社会のすごいところは、我慢を強いられる状況が減り、即座に快楽を得られるようになったことでしょうか。なんか、すごいこの分析…。
おそらくですが、ここがこの作品での1番の核心なのかもしれません。やっと登場しました。
第五章の対談時期は、コロナ渦に入ります。2人はこの状況をこう分析します。
コロナがもともとこの社会にあった傾向を加速させたというのは、その通りだと僕(千葉)も思います。
(中略)
逆に現在は、たとえコロナより小規模な感染被害であっても、社会システムに対して大きなインパクトを持ったと思うんです。
(中略)
こうした状況に対して、右・左の分割線が引かれているんじゃないでしょうか。つまり、絶対安心・安全という側と、リスクと共に生きていくことに人間的意味を見いだす側の分割線がいま引かれていると僕は思うんです。
この社会が働き方や健康やウェルビーイングを重視した世の中に以降しようとした矢先にパンデミックが起こったように思います。
働き方に関しては、コロナが来る前から新しい働き方の内容の本がかなり出版されていましたからね。
トーコ個人的には、パンデミックのおかげでテレワークが普及したことでしょうか。出社に戻す会社も増えましたが、時間を有効に使えるのでテレワークも便利なものです。
ここからエビデンス主義について触れていきます。エビデンスと言うだけはあり、証拠主義になりますか。
エビデンス主義は、状況によって判断することの難しさや責任逃れをしようとすることができます。回避しようとする風潮が蔓延します。
帰責性から逃れるような人間的な思考が必要なら、赦しの問題が発生します。責任が発生したとしても、ある程度のところで責めるのを辞める等の対応が必要になります。
真理とレトリックの間で綱引きをし、この綱引きの中で言葉を磨いていく必要があります。
■最後に
簡単で楽にコミュニケーションが取れるようになった現代で、言語で連ねるということは面倒な行為に変わるかもしれないです。
それでも考えをまとめたり、分析をしたりするためには、言葉は必要です。
この先の世の中で、言語がどのように変化していくのかを見ていくことがたまには必要な気がします。
■関連記事
以前に、千葉雅也の 171.『勉強の哲学』 を紹介しています。この作品のなかでもかなり言及しているので、興味があればぜひお読みください。