こんばんわ、トーコです。
今日は、須賀敦子の『遠い朝の本たち』です。
■あらすじ
大人になる前に出会った様々な本。そこには、忘れられない日常と記憶とともに在り続ける。
死の間際まで推敲を重ねた作品です。
■作品を読んで
しかしまあ、あらすじを本家はどう書いているんだろうと思いAmazonを開いたら、さあ大変。魅力的過ぎる文章でこの作品紹介が彩られていました。
あれは久しぶりにいい紹介文を見ました。出版社も頑張ったなあ。
それにしても、タイミングがよさ過ぎるんですよね。この本を読んでいる途中に(2022年2月下旬)ロシア軍がウクライナと戦争を始めたのですよ。
実は、著者の須賀敦子さんも戦争体験者でした。16歳で終戦を迎えます。幼いころから割と時系列に進んでいくので、次第に戦争の影が忍び寄ってきます。
友と再会し、また学校で学ぶことができるという喜びが随所に現れている文章を読んでいると、そんな苦労を先人たちはしていたんだな、とのんきに感心していました。
が、そんな時にウクライナで戦争ですよ。学校どころじゃない、まず明日が生きていられるかわからない。いつ戦争が終わるかわからない。
戦争が終わっても、校舎は一部が焼けていたりとボロボロ、教材はそう簡単に手に入らない。しかも肝心の本は焼けて残ってもいない。
想像に難くない話を聞かされた後のこれですよ。きっと世界ではまた同じことが起こるんだな、と思います。
この作品を通して、戦争を挟むということがどんなことかを垣間見ることができます。
でも、それだけがこの作品の魅力ではないので、戻ります。
この作品は、著者の子どものころ、大人になり切れていない頃(遠い朝)に読んだ本やその時の風景が織り交ぜられています。
著者が子どものころから本が好きだったのは、父親譲りのものだったようです。
「本に読まれて」と言って叱る母親も本当は本を読むのが好きだったのですが、須賀家にお嫁に来てから姑の祖母にいやがられて本を読まなくなったのだとか。いや、時代ですわ。
父親は、祖父の家業を無理やり継がされており、祖母は父の様子に不満があったようです。それを察知してか、父親は余計に読書に没頭していたのだと思う、と著者は見ています。
この父親とは泉鏡花と森鷗外については、よく話していたそうです。
特に鷗外は、父親の国語で、つまりは師匠でした。娘に読めとうるさい時は、『即興詩人』は意訳・誤訳が多くて忠実ではないけど、と著者は返したり。
ローマに留学した時に最初に父から届いた小包の中に『即興詩人』があり、載っている場所に行ってくださいと書かれていたのだとか。
父親は藤村や平家物語など、日本文学の全集を結構持っていた方のようでした。著者曰く、日本文学は師と呼べる人はいないので、父親は金科玉条でした。
後で解説しますが、著者はイタリアに住んでいた1965年に、25作の日本を代表する作品を収めた日本文学全集をイタリア語で出版します。
作品を翻訳することができる力量のイタリア語をマスターしていただけではなく、日本文学についての正確なニュアンスや素養を持ち合わせていたはずです。
この作品を読んで、この人一体どこで得たんだろうという疑問が解決しました。学校で学んだのではなく、父親の本棚と父親のとの会話からだったのでしょうね。
日本文学全集についてはいつか書きますが、これもこれで結構すごい代物です。
戻りますが、そんな父についてこう思います。
幼いころは、父が買ってくれて、それを読み、成長してからは、父の読んだ本をつぎつぎ読まされて、私は、しらずしらずのうちに読むことを覚えた。
…中略。文学好きの長女を、自分の思いどおりに育てようとした父と、どうしても自分の手で、自分なりの道を切りひらきたかった私との、どちらも逃れられなかったあの灼けるような角質に、私たちは辛い思いをした。
いま、私は、本を読むということについて、父にながい手紙を書いてみたい。そして、なによりも、父からの返事が、ほしい。
若いころはそうだったのかもしれません。けど、このエッセイを書いているころは違います。
気がつけば父が亡くなった年齢を超え、著者自身もまもなく死ぬかもしれない、というときにやっと父と素直に読書について語り合えるのではないか、と思い至ったのでしょう。
「『サフランの歌』のころ」という話が、なんとなくリアルな状況な気がします。
というのも、『サフランの歌』という小説は戦争中に、友人たちが回し読みしていた本のタイトルなのです。
これは秘密のものだよ、と言いながらみんなで読んでいたのだとか。なぜなら、あまりにも西洋じみており、当局の目に触れてはいけないためだったそう。
とまあ、こんな感じで制限が入るのです。いい世の中です、SNSがあるって素晴らしい。
偶然幼いころ住んでいた麻布の家の隣に住んでいた怖いおじさんが残した文章を読みながら、著者は1人で楽しむのはもったいない。
凄すぎる偶然ですが、読んでいる本と同じ風景を見ていた妹に電話で話します。妹もそりゃびっくりです。
ある時代の大切な記憶を共有したくなり、妹に電話したのでした。ただ、ご近所のおじさんのことを何も気にも留めなかったのが悔しそう。
「ダフォルディルがきんいろにはためいて」という作品では、1945年秋つまり終戦直後の学校の様子が描かれています。
16歳で専門学校の英文科生になり、生徒数も5,6人と超少ない中シスターの英語を聞いて、山のように出る宿題をこなす日々だったそうです。
外国の書物がなかなか手に入らない時代に、偶然関西の家に帰った時に父の本棚から見つかった英語の本に驚きます。
なんとその本に載っている詩は、シスターが黒板に書いていた詩でした。それもたくさん。
当時の学校の敷地の半分は、旧校舎の焼け跡のうち教室としてどうにか使用できるところを使っていた時代。
英文科は5,6人しかいないので、ちゃんとした教室をもらっていませんでした。そんな中、詩の中に出てくるダフォルディル=らっぱすいせんの風景がまぶしく映ります。
この作品の終わりは、なかなかに味わいのある文章で閉じられます。
詩しかわからないと思っていたら、いつの間にか人間やフランス、イタリアのことば、文学にのめり込み、散文を書くようになった軌跡をいとおしく思いながら。
最後の作品で、赤い表紙の本を偶然見つけます。それは今でいう、寄せ書き帖でした。それを空襲警報が鳴るたびに防空壕にもっていくほど大切にしていました。
なぜかと言えば、寄せ書き帖を友人たちが書いてくれたのは戦争真っ只中で、疎開などで1度別れると再会が難しい状況でした。
それよりも毎月の最初のページに載っている訳詩が気に入っていたからだったようです。
当時のことをこう回想します。
昭和十九年の十月だから、彼女(しいべという著者の友人)も私も十五歳で、ふたりとも、いつ爆弾で死ぬかわからないと、ごく日常的に、でも真剣に考えていた。それでいて、私は専門学校の英文科に進んで、将来は英語を使う職業について独立した生き方をしたいと考えていたし、しいべはキリスト教をもとめていた。当時の私は、自分も周囲もごまかそうとして、ふだんはふざけてばかりいたのだけど、しいべと一緒にいるときだけは、真剣に人生や戦争や宗教の話をした。
しいべと呼ばれる友人は1番最初の章に登場します。新制大学卒業後、2人は15歳で語っていた時の未来になります。
ちなみに第1章は、しいべは本当にカルメル会の修道院に入り、著者の夫の死の直後にながい手紙を送り、治療のため調布にやってきたしいべとの久しぶりの再会です。
この章を読んでいるころはウクライナで砲撃が始まっていたので、なんというかこの光景が凄くリアルに感じてしまいました。
きっと未来がたくさん開くことができるという年齢に、いつ死ぬかわからないという過酷な思いをさせられるって、かなりつらいことだと思います。
それでも今逃げ回っているこの時も、誰かに言えなくてもいいから未来はやってくると信じて生きのびてほしいなあ、と遠い場所から思いました。
本をめぐる想い出の旅のはずが、戦争がタイミングよく起こったので、違う視点からも読めてしまいました。
■最後に
大人になる前の遠い朝に読んでいた本の記憶と情景をたどっています。なかなか美しく、澄んだ文章です。
ウクライナで戦争がタイミングよく起こっていたので、戦争について言及されている部分が非常に耳につまされます。