こんばんわ、トーコです。
今日は、小川糸の『とわの庭』です。
■あらすじ
とわは目が見えず、母親を頼りに生きています。目は見えないけど、小鳥のさえずりや庭の花のにおいはわかります。
しかし、平和な暮らしに暗雲が立ち込めます。
■作品を読んで
表紙から見るとすごくほっこりする作品なのかな、と思うのですが、なかなかショッキングな描写もあります。そこだけがご了承くださいポイントでしょうか。
そして、小川糸さん、本屋大賞にも最近は常連なので、この作品の特設サイトがあります。この作品についてのエッセイも掲載されています。
新型コロナウイルスによって翻弄された2020年の春頃、住み慣れてきたベルリンを離れ、日本に戻ってきます。が、外出自粛が続き、自由に外にでれない中で、この作品の改稿が著者にとっては希望だったようです。
それでは、作品を見ていきましょう。
とわは、目が見えない女の子でした。なぜとわという名前かというと、母親にとってとわは「えいえんの愛」だからです。
確かに、永遠でとわ、って読めますからね。ゴスペラーズの曲にも、永遠に(とわに)という曲ありましたね。
とわは、2階建ての小さな庭付きの家で母親と2人で暮らしており、日々の生活に必要なものはオットさんという男性が買ってきてくれました。この設定に??が浮かんできますが、描写が淡い水彩画のようなので、気にせず読みましょう。
母親さえいれば大丈夫、母の愛があるから、ととわはかたくなに信じていました。
朝になれば黒歌鳥合唱団と読んでいる鳥のさえずり、庭には様々な木々や花々の匂い、光の感じ。目が見えないなりに上手く把握しながらとわは生きています。
また、目が見えなく、文字の読めないとわのために、母親は本を読み聞かせます。とわは、物語が大好きになります。この体験が後々に役に立ちます。
10歳の誕生日に生まれて初めて外に外出します。なんととわは靴を持っていませんでした。家のなかだけで生きていたから必要ないと言えばそうでしょうが。
とわにとっては、外の世界は恐怖を覚える場所でした。そりゃそうですが、外の騒音に全く慣れていないし…。
母娘で記念に写真を撮るために外出しました。とわは黄色いドレスを着て、化粧をしますが、ひたすら泣いてしまい、母親から離れることはありませんでした。
写真館のおじさんもこの様子をかなり覚えていました。それが後年役に立ちます。
それを境に、家は荒廃していきます。洗い物は滞り、家のなかはゴミ屋敷になっていました。というのも、いつの間にやら母親は消え、オットさんからの配達も滞っていたからです。
そうこうしているうちに、とわは食べ物がなくなってしまい、大変な思いをします。
とわが生きのびるための描写がとにかく凄惨と言えば凄惨です。ですが、著者の語り口が柔らかいせいか、そんな気がしてこないというのが不思議。
でも、確実にとわの状態はいいとは言えません。
わたしはもう、空腹を感じない。
わたしにおなかを空かせていたのは、母さんなのかもしれない。
いや、わたしは食べ物を求めていたのではなく、母さんの愛情を求めて空腹になっていたのかもしれない。
母さんへの想いを断ち切ってしまえば、空腹ともさよならできるなんて、知らなかった。もっと早くそのことに気づいていたら、自分の爪や髪の毛まで貪りたくなるような得体の知れない飢餓感を、抱かなくて済んだのかもしれない。
うーん、母親にとらわれおり、そのおかげで外にでるという発想が全くなかったというちょっとおめでたい感じのする主人公。
とはいえ、母親にとらわれるということは誰しもが陥る可能性のあることのような気がします。母親に認められることでしか、存在を肯定できない場合とか。
いずれにしても、この出来事をきっかけに外にでよう、新しい人生を初めようと決心します。
外にでた瞬間のとわは、ヨレヨレの服に、使用済みのおむつを幾重にも重ね穿きしていました。髪の毛、爪は伸び放題という出で立ちでした。
発見してくれた女性が救急車を呼びます。すると、とわは極度の栄養失調で、胃の中には食べ物と勘違いして口に入れた消しゴムのかけらが入っている状謡でした。
さらに、緊急措置として病院に入院し、体調が回復してから児童養護施設に保護されます。なんか、柔らかく展開していたところに自然と現実のある言葉が並びます。
それからそこで、スズちゃんという女性と出会います。スズちゃんから体の荒い方、トイレの後始末等生活に必要なことを教えてもらいます。
その次は、歯医者に行くことです。歯がボロボロでかなり深刻な状態でした。
さらに、とわの発見当初の年齢が分からないことでかなり話題になっていたようです。同時に出自も判明します。
とわには戸籍がなかったので、生まれてから20数年後に誕生日が決定されます。それには、10歳の誕生日の日に写真を撮った写真館のおじさんがつけていた記録が役に立ちました。
なんと、発見時の年齢は25歳になっていました。うち5年ほどは1人で生きていました。うん、これでは母親は保護責任者の責任を果たしているのやら。まあ、20歳を超えているのでいいのか…。
児童養護施設からグループホームに移り、自立を求められてしまいます。さらに白杖を持っての外出はなれるまでに一苦労。結局、慣れることができずに、盲導犬とともに生きることになります。
とわには、盲導犬のジョイと共に歩く方があっているようで、出不精からの脱却ができました。これで外にでられるようになります。
また、とわはジョイと共に暮らしてた庭付き一戸建てに戻ることを決心します。たくさんの人が引越しの手伝いにやってきます。もちろん、スズちゃんも来ようとしましたが、スズちゃんは妊娠していたので旦那さんが来ましたが。
こうして庭のある家にまた戻ることになりました。
とわはジョイと歩くことで歩くことを楽しむことができるようになりました。歩行相手がジョイに変わったことで人々が親切にしてくれたからです。
また、スマホも役に立っています。写真を撮ってAIで解析すれば、モノの名前がわかるようになったからです。いいですね、さりげなく出現する現代の道具。
ジョイとの暮らしに慣れてきたときに、近所に住むマリさんという60代の女性に話しかけられます。
マリさんは近所から女の子が見えたけど助けられなくてごめんなさい、と謝ります。とわもマリさんの家から流れてくるピアノの音に助けられたと言います。
こうした縁から2人は仲良く話すようになります。マリさんは母親の介護のため、限られた時間しか話すことはないのですが。それでも、少しずつとわの世界は広がっていきます。
とわは花粉症になり、外の庭仕事は出来ないので、雑巾を縫うようになります。この雑巾がマリさんの目に留まり、マリさんが買っていきました。
それから雑巾は販売されることになり、サイトを立ち上げて販売を始めます。
ジョイや多くの人の助けを得て、とわはいつの間にかこう感じるようになりました。
わたしの人生に少しずつ、宝石のような時間が増えていく。時々薬を飲み忘れて、わたしはあの暗黒時代を想い出してパニックになったりもするけれど、今、わたしを取り囲んでいるのは、圧倒的なまぶしさの美しい光だ。手を伸ばせば、そこに光を感じる。助けて、と声をあげれば、手を差し伸べてくれる人が確かに存在する。そのことに、疑いの余地はない。わたしは、守られている。いつだって、光そのものに抱きしめられている。
暗黒時代というのは、母親がいなくなり、1人で飢えをしのいだ時期のことです。
まだ薬の制御がないとパニックは起こすのですが、とわを囲んでいるのは圧倒的な希望です。誰かに守られて、光に導かれている。
30歳になり、10歳の時に写真を撮った写真館に行きます。写真館の先代のおじいさんが20年前に来た時の様子を話してくれます。
今度はジョイと一緒に写真を撮ります。これで記憶が上書きされました。
とわは最後にまだまだやりたいことをあげています。ハーレーダビッドソンに乗ったり、馬に乗ったり。
確かにわたしは目が見えないけれど、世界が美しいと感じることはできる。この世界には、まだまだ美しいものがたくさん息を潜めている。だからわたしは、そのひとつひとつをこの小さな手のひらにとって、慈しみたいのだ。そのために生まれたのだから。この体が生きている限り、夜空には、わたしだけの星座が、生まれ続ける。
ものすごく希望が詰まっている感じで物語は終わります。でも、このセリフは忘れてはいけないことがたくさん詰まっています。
この世界には沢山の美しいものがあるし、それをきちんと発見して慈しめるのは幸せなこと。ましてや、このブログを読んでいる方は目が見えているのですから。
さて、前を向いて世界を楽しみながら、生きていきますか。
■最後に
目の見えないとわが、1度は暗黒時代に落ちるも、周囲の人の助けを得、光に包まれながら希望を掴んでいきます。
とても穏やかで水彩画のように淡い描写のなかには、社会的な問題もさりげなく含まれているというとても素敵な作品です。
■関連記事
これまでに紹介した小川糸作品です。結構数が増えてきました。
74.『ツバキ文具店』、163.『サーカスの夜に』、206.『キラキラ共和国』、237.『洋食小川』