こんばんわ、トーコです。
今回は、宮尾登美子の『寒椿』です。
■あらすじ
芸妓子方屋「松崎」で育った4人の少女、澄子、民江、貞子、妙子。
そして、「松崎」の娘悦子の5人で幼い時は姉妹のように過ごしていました。
やがて、4人の少女たちも花柳界に身を投じ、運命に翻弄されます。
ある出来事をきっかけに、再び再会します。
■作品を読んで
この作品は著者の自伝的要素があるように思います。この作品に限った話ではないですが。
というのも、著者の実家も芸妓子方屋、いわゆる置き屋。この作品でいうところの悦子のポジションが著者です。
すでに亡くなっていますが、この方の半生もすごいです。戦争をまたいでいるので、壮絶度合いは高いですが、作家になるまでがすごいです。
この作品は、澄子の入院をきっかけに何十年ぶりに集合した4人の少女たちの生きた姿を映し出しています。
4人のうち貞子だけはすでに亡くなっていますが、澄子、民江、妙子は元気にしていました。
4人とも家が貧しく、今でいうところのネグレクトも受けつつも置屋に売られ、店を変えるたびに増えていく借金に、運命に負けそうになったり。
どこに幸運が落ちているのかわからない中、懸命に生き抜いていきます。
とはいえ、どこに幸運が落ちているかなんて、トーコ自身も分かりません。
今が幸運か不運かを判断するのは難易度の高い話です。
でも、再会したときに皆がいい顔をしていれば、それまでの苦労はあったにせよ今がちょうどいいものがあるのかもしれません。
ちなみに、澄子の入院をきっかけに生きている3人が集まりました。民江、妙子、悦子が。
澄子は銀行の頭取の愛人みたいなものをしていますが、この入院のおかげで頭取はまとまったお金を渡して別な女のもとに行きました。
それを知ってか知らずが、もう1度頭取に会うために元気にならなくちゃと気張ります。
民江も澄子と同じく、50を過ぎても芸妓を生業としています。2人とも芸に生き、恋に生きという状態です。
一方、妙子だけは違います。置屋に売りに出されてから、戦後の一時を除いては堅気の人間として生き続けました。
運よく水商売で生きるのに疲れ切っていた時に良き伴侶を見つけることができ、幾度とない事業の失敗や絶望的な状況に陥るも、再会の時には社長夫人として落ち着いていました。
貞子については読んでいてつらいです。はっきりと明言してはいないですが、いわゆる知恵遅れ的な人で、自分の欲望や価値をうまく制御できる人ではなかったようです。
それでも最後は自分に尽くしてくれたよき夫と子どもたちに恵まれて死にましたが。
この章だけは何か違った思いを持った視点で語られています。
おそらくですが、悦子も大きくなって家業を憎むようになっていました。まあ、まっとうに考えればそうでしょうが。
そのため、嫁入り道具にと貞子からもらった帯を1度も使わずに箪笥の肥やしにしていたことを後悔していたのも関連するでしょう。
それでも思うに、心持ちが1人妙子だけが違うように思います。
安楽さを願うより、より困難なものを乗り越していくほうに魅力を感じる。世の人たちが水商売の女を蔑むのは、楽して着飾り、面白可笑しく世渡りしようとするところを忌むからであって、民江も澄子も口では嫌がりながらも心底この仕事を憎み切っていないところにいまの境遇があるのではないかと妙子は思った。
妙子は水商売という仕事からなんとしてでもいいから逃げようと思い、逃げ切りました。
現状のままに甘んじているうちは何も変わらない。そのためには困難を乗り越える必要があるとわきまえていたのだと。
そして、水商売の人間を蔑む理由が見事に書かれています。
2020年6月現在、新型コロナウイルス感染が再び増えても「夜の街クラスター」と称して変にあいつらだからしょうがないという空気を醸し出しているように思います。
こんな状況だからこそ、なんかここに「夜の街クラスター」という言葉が正当化される理由が示されているような気がします。
この作品を読んでいけばわかりますが、水商売に生きていても1人の人間として生き抜く手段がたまたま水商売だったということです。
4人の少女たちの育った時代が戦前、戦中から戦後にかけての芸妓生活を生き抜いてきました。まあ、これだけでも激動ですからね。
人間が生きるというのは、大なり小なり様々な物語りがあるのですから。
なんというか、人生って何が起こるかはわかりません。
■最後に
同じ置屋で育った4人の少女たちの生きた姿が描かれています。
花柳界というまあ後ろ指刺されやすい業界で生きてきたとはいえ、人間が生きるというのがどんなことかがわかります。