こんばんわ、トーコです。
今日は、林真理子の「綴る女 評伝・宮尾登美子」です。
■あらすじ
時代を生きる女性を描いた作品が次々にヒットし、映像化や様々な賞を受賞するなど、昭和、平成を駆け抜けた宮尾登美子。
その宮尾登美子の姿を親交のあった林真理子が描いた作品です。
■作品を読んで
まず、林真理子の作品。42.「本を読む女」。続きまして、宮尾登美子の作品。57.「お針道具」、243.「寒椿」。
著者は生前宮尾登美子と仲が良かったそうですが、いたるところにエピソードがちりばめられています。
同時に、言われたことはかなり客観的に分析しています。どうもほかの人にも言ってたのではないか、ってな感じで。
それにしても、冒頭のエピソードが凄いです。昭和58年の紅白歌合戦での審査員の記念写真のこと。
写真に松坂慶子と宮尾登美子が並んで座っていました。実は2人の着物は白地でかぶってしまったようです。
ところが、宮尾登美子は着替えの着物を持っていたようで、藤色の着物に着替えて審査に臨んだのだとか。
昭和58年だと、松坂慶子の方が年下なので、年下に配慮したこと、何よりびっくりなのが予備の着物を持っていたことです。
普通じゃないエピソード。着物持ってることがそもそも驚き…。どんな予測能力ですか。
やがて「宮尾登美子ブーム」がやってきて、出す本出す本が大ベストセラーになり、映画化すると大当たりするようになりました。
しかし、その一方で女性作家の中ではかなり孤立していたようで、「私はみんなにイジめられている」と口にしていたようです。
著者の林真理子は宮尾登美子の純粋なファンだったので、宮尾登美子も気を許していたのでしょう。
仲良くなると宮尾登美子の素顔がまた見えてきます。料理屋には着物で現れ、仲居さんや板前さんにポチ袋を渡し(おそらくこの中はお金)、林真理子が娘を出産した時はいち早く駆け付け、着物の本を出版した際には着物を譲ってもらったり。
今時見られないなかなか気前のいいエピソードです。
この作品は、本当に宮尾登美子が描いた女衒の岩伍や高知の花柳界が本当に存在していたのか、フィクションと事実のつきあわせを通して宮尾登美子の世界の秘密を探るというコンセプトでまとめられています。
宮尾にとって母親は2人いました。1人は育ての親である喜世。この人は父猛吾と結婚するも女衒紹介業といういかがわしい商売を行うにつれ、そんな伴侶の姿がいやになり、離婚することになります。
ちなみにこの2人の間に生まれた息子の息子、つまるところ宮尾登美子の甥にあたる人が取材に応じてくれたようです。
もう1人は実母です。実母は娘義太夫で、生後間もなく実母から離れ、育ての親である喜世のもとに連れられます。当然ですが、受け入れることは容易ではありません。しかし、少しずつですが、受け入れ、宮尾も父と母が離婚するときには育ての母親についていったそうです。
ちなみに、著者は取材中に実母の写真を見ることができたようです。
両親が離婚した時に母親についていくも、女学校入試のため父親のもとに戻ります。が、1.8倍の倍率で落ちることはないだろうと思っていたようですが、第一志望の女学校に落ち、2年後になんとか当初志望していなかった女学校に編入します。
あの…、1.8倍って2倍近いので結構油断していると落ちるレベルなんですけどね。そこを心配しないのが世間知らずのお嬢様ですな…。
女学校からさらに東京の女子大に進学希望を出すも親の反対と戦時下であることで断念し、女学校の家政研究科に進みます。が、それも1年で退学し、17歳の時に国民学校の代用教員になります。
17歳で先生って、一体と思うでしょう。どうも戦争中は適齢期の男性が戦地に送られていたため、師範学校出の教員だけでは足りていなかったそうです。さらに言えば、山間部は特に人手不足のため、すぐに職を得ることができたと著者は推測しています。
というか、女学校の1クラスが遠方の軍需工場に送られるかもしれないという噂が飛び交い、2年の満了を待たずに父親の庇護のもと就職するんだからすごい。女衒紹介業って、結構儲かっているようです。
しかも、代用教員の給料に父親からの仕送りもプラスして生活しているのですから、驚き。
とはいえ、実家の家業は嫌っているのですから(社会人になって仕送りもらっていること自体矛盾)、結婚相手は、俳優のマルチェロ・マストロヤンニそっくりで実家が農業で国民学校の同僚の教師を選びます。
なんと、家事を一切したことのない生粋のお嬢様育ちの宮尾がまさかの農家の嫁になります。とは言いつつも、姑がかなりい人なのと満州から帰国してから半年後に病を患ったので、農作業はほぼしていないそうです。
それから、堤防工事により農地を結構売ったので、村の保育園の保母さんになります。やがて機関誌を出したり、婦人会の活動に参加し、その中で執筆したりと、どんどん頭角を現します。
それから最初の夫である前田薫と離婚し、高知新聞社の記者の宮尾雅夫と再婚します。
とはいえ、再婚してからの生活は順風満帆とは言えない状況でした。借金が膨らみ、「背水の陣」で書いたのが「櫂」。忌み嫌っていた生家が書くネタとして使おうと決意した瞬間でもありました。
「櫂」は私家本で自費出版しました。それをあちこちの出版社に送ったところ、筑摩書房と講談社が目を付けました。
しかも、この私家本「櫂」は太宰賞を受賞します。ですが、物語の第一章だけでは本にならないので、貸別荘に連れていかれ、続きを執筆します。
この時の想いをこう語ったようです。
ときどき、これでいいのかな、そのときの私の気持ちは、これで失敗したら私はもう這い上がることは出来ないし、これで私の人生はおしまいだと思った。それで一生懸命書いたの
ちなみに、著者の林真理子もデビュー作を書いたときは同じ思いだったそうです。「ルンルンを買っておうちに帰ろう」が売れなければ、二流のコピーライターのままで、一生這い上がることはできない、と。
そういえば、トーコもこの前受けた試験が合格率10%程度の試験で、これが受からなければ本業でこれ以上浮上することはないな、と思ってかなり気合を入れて勉強したなぁ、ってことを思い出しました。それに近いのかな、おそらく遠いですけど。
それから、「櫂」執筆中に東宝から芝居化したいとの連絡を受けます。なお、太宰賞の授賞式のスピーチは30分語ったそうです。そのころには作家としての矜持は出来上がっておりました。
それから、出す本出す本ベストセラーに、芝居や映像化になるほどの人気作家になります。しかし、一方でモデル事件で裁判になり、大変な思いをする作家もいます。
が、「きのね」で市川團十郎の妻を書いたときは、事務所の松竹からの抗議があり、危うく裁判になることも覚悟していました。しかし、12代目市川團十郎(海老蔵さんの父)は、書かないでほしいことに対してイエスもノーも言わず、鷹揚にしていたそうです。
結果的にこれで宮尾の名誉を守ることができました。
平成19年に宮尾雅夫が亡くなります。亡くなった直後は無気力状態になり、やがて高知に居を移します。そして、平成26年の年末に亡くなります。
亡くなる直前に15枚ほどの草稿を渡されたそうです。それは、前の夫前田薫と宮尾雅夫が生きている間はかけないと言っていた、綾子が作家としてスタートするはずの物語だったそうです。
一応この方、岩伍と喜和のモデルが生きている間は書かなかったように、さすがに2人の夫が生きている間は書けなかった物語がたくさんあったのだと思います。
ただ、残念ながら読者は読むことができずに終わってしまいましたが。
■最後に
あっという間に読めてしまいますが、宮尾の小説世界をめぐる旅≒宮尾の自叙伝です。自伝の形式というかかなり斬新な形態です。
宮尾登美子の生き方が分かるのと同時に、宮尾作品がむしょうに読みたくなります。
[…] これは、その通りだな、と思ってます。というか、著者の286.「綴る女 評伝・宮尾登美子」でも触れられています。こっちのほうが後の作品なのであれですが。 […]
[…] 42.『本を読む女』、286.『綴る女 評伝・宮尾登美子』、309.『白蓮れんれん』、319.『野心のすすめ』 […]