こんばんわ、トーコです。
今日は、パウロ・コエーリョの『賢者の視点』です。
■あらすじ
この作品は、2006年にイギリスで出版されたエッセイなどをまとめた本の日本語訳です。
個人としてのコエーリョの視点や思考がよく表れている作品です。
■作品を読んで
まずは、これまで紹介したパウロ・コエーリョ作品です。
30.『ベロニカは死ぬことにした』、200.『ヴァルキリーズ』
意外と紹介していなかった…。とはいえ、あと2冊はネタがあるので(どんだけ進んでいない)、お楽しみに。
パウロ・コエーリョ作品は、読後に自分を見つめるいいきっかけをくれます。救われた人もいる気がします。
そんなパウロ・コエーリョの内面を少しですが、覗いてみましょうか。
「はじめに」の終わりに、この作品の趣旨が記されています。
この先のページには、わたし自身の経験や、誰かから教わった話、人生という川の流れを旅するなかで考えたことなどが集められている。
それも太字で。なんと、この作品ご親切なことに、大事な部分は太字で書かれています。ありがたや、ありがたや。
ここからは、トーコが印象に残ったものおそらく3つくらい紹介します。
まず、1つ目。
背筋をのばす、その単純な変化だけで不思議と自信を取り戻せるのだ。
言われてみれば、そんな経験があったなと思い出します。
著者曰く、こうすることの意味は、姿勢を整え、できるだけエレガントな自分を演じることを意識しているからです。無意識の振舞いは、意外と言葉よりも多くのことを語ってしまう場合があります。
「落ち着き」が胸の奥で生まれるもの、「エレガンス」は表面的ではない肉体からにじみ出るもの。時には不安を抱え、うまく振舞えないこともありますが。
エレガンスは、明確さと集中力を手に入れたときにはじめて得られます。
つまずくことを怖れずに、喜びに満ちた足取りで、確かな一歩を踏み出して歩こう。それは孤独な歩みではなく、なにかあれば横を歩く仲間たちの存在に助けられるはずだ。
同時に、敵はあなたの身振りの変化を見逃してくれないということも念頭においておかなければならない。だから、もし自分が固くなっていると感じたら、深呼吸して落ち着きを取り戻そう。すると不思議な奇跡が生まれ、心を満たす静寂に気づくだろう。
これは、今後の振舞いのいいヒントというか、模範な気がしてきます。なんだか、自分が安定しそうという予感があります。忘れたときに思い出そう。
なお、ここからアーチェリーを例にしていますが、アーチェリーに関する引用はここでは省きたいと思います。
それは、いつの日か紹介する本に書かれていますので、しばしお待ちください。
では、2つ目。これは、アラブのことわざから着想を得た小話でもあります。その最後の部分です。
余計な口ばかり出したがる愚か者は、自らの庭を耕そうとはしない。
いるよねー、そういうやつ、と毒づいている人多数でしょうね。トーコの職場にもいたっけなぁと思いだします。
アラブのことわざは、「愚か者を相手に千の叡智を教えることは可能だが、彼が求めるのはあなたそのものなのだ」というもの。
これはどういう意味かと言えば、自分の庭に手を付けないくせに、他人の庭には文句を言う。
そんな奴の言うことは聞かなくてもいい。聞いたら最後、彼のために働くことになる。それは違う。
そして、忍耐強く耕した者にしか知りえない秘訣が、その土地のいたるところにあるだなんて、愚か者は知らないのです。
自らの庭をきちんと耕した者が知りえることもたくさんあるのに、愚か者はみすみす逃してしまうのです。
何だか、あなたはどっちの人生がいいでショー、とどっちの料理ショーにかけてみました。懐かしいテレビ番組ですね、って知らん人もいますね。
3つ目は、これです。
と、その前に、まずこういう人がいます。「夢を信じて生きてきました。全力で不正とも戦ってきました。でもいつも、最後は失望して終わりです」
というか、一般社会ってこういう人ばかりです。「やめろ、こっちの夢・目標に水差す気があほー」、と叫びたいレベルで多いです。
しかし、パウロ・コエーリョはこう勇気づけます。たとえそれが不可能なことであっても、戦う価値があることを知っているはずです。
失望を怖れず、剣の威力と愛の力を疑いません。決断を下そうとせず、責任転嫁ばかりの人を認めることはないでしょう。
自分の力が及ばないと分かっていても、不正に立ち向かおうとしないのであれば、正しい道は見つかりません。
いま、何かに頑張っている方へ。この言葉を胸に希望を持って、頑張りましょう。近くにいる責任転嫁野郎のことはこれで無視しましょうね。
この部分が太字になるので、引用します。
人生の荒波に対する構えは、いつだって用意されている。しかし、たいていは心の奥底にしまいこまれており、苦労して取り出したときにはもう手遅れなのだ
締めは、だからこそ、つねに準備を怠らないようにしよう。さもなくば、機会を逃し、戦いに負けてしまうことになるのです。
本当にこれはそう。うんうん、とうなずいてしまいます。なんかすごく元気出ます。これでいいんだ、と胸を張って生きて行けそうです。
この作品の原題は、英訳だと「川の流れのように」です。ポルトガル語だと、「川の流れのように生きるために」だそう。
なんというか、遠く離れたブラジルで生きている人も日本人のような感覚をお持ちなんだな、と思います。
著作よりもこの作品の方がパウロ・コエーリョの考えや視点がよく表れているので、ひょっとしたら禅の感覚を学べと言われたらすとんと入りそう…。
この概念、日本人にとっては身近ですからね。きっととっつきやすいのではないでしょうか。
というか、かなりパウロ・コエーリョの死生観が非常に見えてきます。「死」と隣合わせの経験があったから、「生」が生きる。
こうやって自らを律しているのでしょうね。
■最後に
「川の流れのように生きるために」まとめたジャーナルやエッセイがたくさん詰まっています。
著者自身の思考・視点が詰まっており、著者自身を自らを律している言葉を分けてもらえます。
[…] 30.『ベロニカは死ぬことにした』、200.『ヴァルキリーズ』、375.『賢者の視点』 […]
[…] 30.『ベロニカは死ぬことにした』、200.『ヴァルキリーズ』、375.『賢者の視点』、395.『第五の山』 […]