こんばんわ、トーコです。
今日は、イーユン・リーの『千年の祈り』です。
■あらすじ
ずっと語らずにいた父と娘、独身の英語教師の娘と卵売りの母、役立たずのおじさんもきちんと生きたし。
様々な短編が収録されている、著者のデビュー作です。
■作品を読んで
この作品の裏表紙に堀江さんの講評が書かれています。
基本的に人は「ひとり」である。大きな力によって、そうあるしかなかった人々。
この講評に至極同意です。
読み進めていただければわかってきますが、確かにこの永遠の「ひとり」は全ての短編に共通するものです。
この短編集を読んでいると、人はどんなに愛する人といても、結局究極的には孤独なんだということを思い知らされます。そんな軽い絶望感があります。
でもそんな軽い絶望感もここまでさらっと書いてしまえば、普通のことに変わるものです。
この短編集は著者のデビュー作らしいのですが、ここまで書けるってすごいです。
いつまでも冷えない感情の溶岩が残っているとも堀江さんは書いています。
そう思います。読み終わった後の心の中のざわめきがなかなか消えません。
この短編集は、著者の育った環境が色濃く映し出されています。
著者の幼少期は、文化大革命真っ只中。当時の知識人階級は相当の迫害を受けますが、彼女の父親は核兵器開発の技術者だったため、迫害を免れています。
そのせいか割と幼い頃に勉強して中国国外へなんとか行こうと決めていたようです。
それから著者の高校生の頃に天安門事件を経験します。直接は見てはないのですが、両親は見たようです。凄惨な光景だったようです。
北京大学卒業後、細菌学を学ぶためアメリカの大学院へ進学します。それから専攻を創作に切り替えて作家になります。
ちなみに著者は中国語で書かず英語で書いています。
なぜかといえば、中国語だと自己検閲してしまい、書けないのだとか。
英語という「新たに使える言語が見つかり、幸運だと思う。」と語っています。
余談ですが、表題作「千年の祈り」にでてくるアメリカで生活し、離婚したばかりの娘さんも同じセリフを言います。
自分の気持ちを言葉にせずに育ったら、ちがう言語を習って新しい言葉で話すほうが楽なの。
自己検閲して中国語では書けないという理由は、ひとえに彼女が育った中国という特殊な環境が大きいのです。
だから、新しい言語で表現することが著者の場合は必要なのです。
この短編集は天安門事件以前の中国の市井の人々を映し出しています。とはいえ、こんな生きずらい世界はやだな、と思ってしまいますが。
ここで絶対に生きていけないわ、とトーコは思いました。
■最後に
こうやって著作を行う裏には、著者の境遇が重くかかわっています。
読み終わった後の感情のざわめきはなかなか消えません。それだけかなり印象に残ります。そんな短編集です。