こんばんわ、トーコです。
今日は、仲正昌樹の『ハイデガー哲学入門ー『存在と時間』を読む』です。
■あらすじ
ハイデガーとは、20世紀のドイツ語圏で最も影響力が大きかった哲学者です。
20世紀のドイツ哲学は現在に至るまで、ハイデガーをどう解釈し、位置づけるかを議論してきました。
そんな哲学界のスーパー大御所の著作、『存在と時間』を解説していきます。
■作品を読んで
著者は、現在金沢大学の教授をしつつ、執筆活動も行っています。
著者曰く、哲学の人からは文学の人扱いされ、文学系の人からは哲学・思想史系の人扱いされ、執筆活動するようになったら評論家の人、社会学の人扱いもされたりと、まあ狭間の人のようです。悪く言えば、中途半端。
前にもハンナ・アーレントの解説本を読んだ記憶があります。実は、学生時代に統一教会の活動に加わったこともあるとか。現在は脱会しています。この情報が旬過ぎてビビりました。(このブログを書いているのが、2022年9月なので)
著者の紹介はここまでにして、それでは作品に行きましょう。
まず、『存在と時間』はボリュームがかなりあります。訳書は分冊されていることが多いですが、光文社古典新訳文庫から出ているものが8冊です。すごい投資額…。引きますね、これ。
で、以下が本書の構成です。
- 第一章 何故、「主体」ではなく、「現存在」と言うのか?
- 第二章 「ひと=世間」の何が問題なのか?
- 第三章 「死に向かう存在」にとっての「良心」とは?ー「覚悟」するのは誰か?
- 第四章 「存在」と「時間」はどういう関係なのか?
- 終章 『存在と時間』の残した課題
先にいますが、もとのテクストが難しいので、相当かいつまんでテーマを選定しています。
さらに、原書を読み解くには、ハイデガー自身の独特の言い回しや言葉も解説しています。同時に、それがポイントだったりもします。
『存在と時間』の冒頭は、「存在への問いは、今日では忘却されている」で始まります。
ここで、多くの人は「存在への問い…?なんのこっちゃ」と思うことでしょう。西欧では「哲学」に興味関心がある人にとっては当然の問いですが、こちらは全くわかりません。
そもそも哲学が存在の本質を問う学問です。
しかし、起点の「存在」という概念はなかなか問いの対象としにくいです。「存在」するかしないかの概念がなければ、私たちは何を頼りに考え、行動しているかが分からないです。
だから、「存在」への問いは困難で、ハイデガーもそこは問題にしています。
ハイデガーの言う、「現存在」は簡単に言うと人間です。今存在しているのは何故か、それにはどういう意味があるのかという疑問を持ち、ひいては「存在」そのものを研究するということ。
のっけから、かなりポイントをかいつまむのが大変です。原書が難しいので、解説もそこそこ難しいです。
すげーな、哲学の人って。これを理解するのか…、大変だ。
おそらく、すべての章をちょこちょこ見てくととんでもない字数になりますので、結構かいつまみます。
ハイデガーは、「現存在」が不可避的に「世界」に属するものとして「ある」を指摘し、そうした「現存在」の存在性格を「世界内存在 In-der-Welt-Sein」と言います。
日本語では世界内存在というさらりと割と言いやすい言葉で訳されていますが、ドイツ語だと4語に分かれ、しかも言いにくそうで超不自然。まあ、ハイデガーの狙いはわざと言いにくくすることです。
第2章は簡単に言うと、「現存在」を(根源的な)「気遣い」としてとらえようとします。「気遣い」は平たく言うと(トーコの印象)関心でしょうか。
「現存在」の根本体制に「不断の未完結性」が含まれていることを指摘します。
どういう意味かというと、「気遣い」を通して「現存在」自体の在り方が変動し続け、様々な「存在可能性」が生じてくるので、その全体を把握することができないということ。
ですが、人間はやがて死にます。確実に死に向かっているのですね。で、「気遣い」は死にむかっているのです。
現存在が「死へと関わる存在」であり、「先駆的」に決意する存在者である以上、「将来」が優位に立つはずであり、本来的時間制にあっては、「将来」を中心に時間制が統一され、自己に固有の在り方を目指して気遣い続ける現存在の姿が開示されるはずです。
が、「将来」「現在」「過去」の関係が非本来的時間性が生じます。そこで、これらの相互関係の紐づけと、特徴づけを行います。
こうしてタイプしていると、なんだかすごく訳の分からん話を聞かされていますね…。
ここでのポイントは、「現存在」と死な気がします。それから、時間軸が発生してきます。なんだろう、1つの問いから芋づる式に問いが発生し、なんとか収拾つけようとする感覚。
というか、ここにきて「存在と時間」の時間が現れてきます。ここにきてか…、と思うことでしょうが。
時間との紐づけと言ってますが、時間性は私たちが体験している時間そのものでもあります。まあ、最大のポイントが出現しましたよ。
自らの固有の存在可能性を選び取り、それに向かって自己を投企しながら実存する限り、不可避的に生じてくる、「実存」の条件である。更に言えば、「現存在」の「実存」そのものと言うべき、根源的な構造である。
ハイデガーの言う時間性はこういうことのようです。ふー、わけわからん。
ハイデガーはここから、時間性から客観的時間に派生すると言います。で、ここから哲学だけに留まらない分析が始まっていきます。
ここで、ハイデガーは「歴運」という言葉を使います。これは、個々の命運から合成されるのではなく、共同体の民族の生起のことでしょうか。
また新しい概念が追加されます。が、意外と言いたいことはかなり自明のことになってきます。
死を見据えて、本当に自分らしく生きようと決意した人間は、自らの歴史に対して眼が開かれ、その時々の周囲の情勢に流されることなく、「民族」の過去から、「将来」へと連綿と続く「歴運」の中で、その中に生まれついた自分の使命(命運)を見出すことになる。
というか、わかりやすくなりました。だから、ハイデガー哲学は哲学に留まらず、歴史など広範囲に影響を与えているのね、とやっと納得することができます。
なお、『存在と時間』は未完の書です。構想としては、序論、本論2部の構成で、第一部と第二部はそれぞれ三つの篇を含むはずでした。
第二部では、「有時性」について述べる予定だったようです。
が、第一部が「現存在→実存→世界内存在→気遣いの構造→決意性+先駆性→時間性」という流れで展開していきましたが、第二部とのつながりがかえってわからなくなったようです。
だから、最終的結論が中途半端に見えてしまっているようで、著者もそこに触れています。
『存在と時間』はこの切り口だけでなく、様々な読み方があります。
しかし、このテクストは哲学だけでなく、政治・社会思想史に及んだテクストは早々ないです。『存在と時間』は20世紀で最大の波紋をもたらしたテクストともいえます。
■作品を読んで
超難解なテクストの解説です。解説もこんなにムズイんかいとツッコミたくなることでしょう。
ですが、たまにはこうして固いものを嚙み砕く読書も必要な気がします。
自分は一体何者なのか、に悩んだ時はハイデガーを読むのが1番いいのでしょうね。