こんばんわ、トーコです。
今日は、川上未映子の『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』です。
■あらすじ
著者は、ミュージシャンとして活動ののち、作家として活動を始め、芥川賞を受賞します。
この作品は、著者にとってはデビュー作にあたります。そこには、様々な感情むき出しの日常の日々でした。
■作品を読んで
まずは、恒例行事これまでに紹介した川上未映子作品です。
29.『すべて真夜中の恋人たち』 433.『春のこわいもの』
他にも読んでいたのですが、まさかの1作品のみ…。
著者はつい最近、ピーターラビットシリーズの新訳を発表していました。なんか意外だなと思ったので、記憶にあります。
この作品は、2003年から約3年間毎日ブログに書いていたことをもとに構成されています。
ブログを書いている当時は、まさか物書きになるとは夢にも思っていなかったそうですが、読み返してもあまり変わらない日常か死んだ人の遺書を読んでいるような気がすると書かれています。
死んだ人の遺書という例えがすごいですが、忘れすぎていて思い出せない過去はこうなるんですね。
まあ、確かに昔の日記を読んでいるときによく感じますね。一体そんなことがあったのか、誰と一緒だったか等全く思い出せないときがあるんで。きっとそれがちょっとオーバーに言うと、死んだ人の遺書。表現は得てして妙ですが。
さらに、この作品は著者曰く、
日記というには余りにずさんな記録であるし、随筆というには悲しいほどに直観に乏しく、コラムというには心構えが多分に脆弱、誰に請われるわけでもなく、自分でがしがしと書いておきながら、けっきょく蓋をぱっかと開けてみれば、顔のそろわぬ、出自も気概も何もかもがてんででたらめな文章群がこっちを見て怒ったり黙ったり笑ったりしているんであって、…
とまあ、乱暴な言い方をすればかなり書きなぐった、けど、これが著者の若かりし頃の記憶なんだな、ということがわかります。
この文章、実は一文ものすごく長いです。ほぼ1ページ分です。先に紹介した作品を読んだ後にこれを読むと、ギャップに驚かされることでしょう。なんか、人が違う…。
まあ、作品に移りましょう。
といっても、著者の言う通りで、ブログという媒体だから書ける口調、書けた内容なんだろうな、と思います。ですが、この作品を読めば著者の人となりが分かります。
幼き頃、シルバニアファミリーのミニチュアの家具を買おうして一生懸命にお金を貯めるも、著者がおもらしして、家具が3枚1組で売られているパンツに変わった話、レコーディングで早稲田にいかなければならないのに迷子になり、パニックを起こした話。
なんだか、これを読んでいると情景を描く視点は既に作家かもしれないですね。でも、東京である場所に行こうとして乗る電車を間違えて変な方向に行った経験のある人って、結構いらっしゃるのではないでしょうか。トーコも何回もやりそうになりますもの。
ましてや、書かれた当時(2000年代の前半)はまだスマートフォンはなく、乗り換えサービスみたいなサイトがガラケーであるかないかの世界のはずです。
早稲田に行くはずが乗る方向を間違えて、あっちこっちぐるぐる回っているうちに絶望的な気分になってきます。
ましてやこの日は、4年間温めてきた大事な曲のレコーディングの日で出来れば何も事故なく行きたかったのに。そのありのままの感情がものすごくむき出しで、読み手も何が起こっているのかが観察できるし、感じ、共感することもできる。
それくらい臨場感あり、身近に起こるであろう近い話だったりします。
かと思えば、「子供は誰が作るのんか」というエッセイでは、養老孟司の都市化された脳の話をさらっと引用したり、埴谷雄高が奥さんが妊娠するたびに堕ろす話やらいろいろと飛び出します。
結構この口調で書かれているエッセイで結構似つかわしくない人が出てくるので、そのギャップに勝手に驚いたりします。
著者の家自体がかなり貧しいそうで、大きくなって子供を産んだら、いつか自分のことを憎んでしまうことになるのではないかとひどく恐れていたようです。今思えば、なかなか僭越的な考え方だったと反省してますけどね。著者はのちに子供産んでますけどね。
また、別なエッセイでは当時は歌手活動の方がメインだったようで、レコーディングが明け方までかかり、家に帰ってコンタクトレンズを外してみれば、見事に乾いている…。
トーコはコンタクトレンズをしていないのでよくわかりませんが、恐らくコンタクトレンズをしている人から見れば目はとんでもないことになっているのでしょう。
まずひと眠りして起きても、あの曲はこうすればいいのか、アレンジはこうかとか考えている。それだけ夢中になってやっているのでしょうね。
「すべてが過ぎ去る」というエッセイで、著者の状況を描いています。まず、家が貧しいので、中学生の頃から年齢を偽って工場で働き、その給料で電話をつけたそう。
高校を卒業後、昼間は書店、夜は北新地で働いて、家にあった多額の借金を返し、弟を大学に入れて卒業させたそう。だから、この作品を作っているころは20代の後半。
そのころ、著者はこう思っていました。
生活なんかは程度の差こそあれ、苦労するのはどの人生も当たり前で、生活に正しいも間違いもないことは判っているけれど、なんだか今現在、実際に大人になった自分のことだけを考えて生活するということがすごく恐ろしいことのように思える。もちろん東京にいたってお母さんのことは毎日考えるけれど、何かが恐ろしく思えてしまう。
生まれて初めて自由を手に入れ、その自由が恐ろしく感じられる。なんだか苦労が抜け、自由があるのに現実感のない感じ。何かに解放された人なら感じると思いますが、これだけ重い事情を抱えていればそう思うのも無理はない。
ですが、このエッセイの本当のオチはここではないです。この日気を取り直して図書館に行き、多和田葉子氏の「聖女の伝説」のある部分を読みたくて出かけます。
何度も何度も気になる部分を読み、更年期障害で苦しむ母を想い、この1行を書けるわけないと思っていると閉館の時間が来ます。
そのコピーを財布に入れ、自転車のかごに財布を入れます。盗まれたらどうしよう、この一行のコピーは戻ってくるのだろうかと想像してても、結局盗まれずに終わります。
で、その最後の部分。
ほっとする気持ちと際限なく地面に沈んでいく気持ち。すぐ近くでカラスが鋭く鳴いて、自転車の鍵を鍵穴にさす。私は何をやってるんやろうか。
外はもう真っ暗やった。
盗まれずにほっとしますが、気分が晴れないのには変わりはありません。カラスが鳴き、何やってんだろうかと我に返った時には既に外は真っ暗で1日が終わっていました。
なんか、うまく情景と心情を描いていて、ああこの人ブログにしてはすごく新鮮な形で文章を書くなあ、と思った方もきっといる気がします。そこから出版にこぎつけたのでしょうね、きっと。まあ、あくまでトーコの推測ですが。
いずれにしても、単行本出版から2年で『乳と卵』で芥川賞を受賞します。結構すごいスピードですね。
■最後に
なかなか乱暴に書きなぐっているような文章かもしれないですが、随所に作家としての片鱗が見えてきます。
作家になる前の、ミュージシャンとして送った日々の中で感じたことが描かれています。
[…] 29.『すべて真夜中の恋人たち』、399.『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』 […]