こんばんわ、トーコです。
今日は、ヴァージニア・ウルフの『波』です。
■あらすじ
遠い太陽の光が海辺の一日を照らし、寄せては返す波のうねりが文章として表現されている。
そこに描かれているのは、男女6人の呼びかけのような独白。様々な時代を、幻想のように語っています。
■作品を読んで
この作品は、帯には45年ぶりの新訳としてちょうど2021年に登場しました。
この作品はヴァージニア・ウルフの作品のなかでも傑作に数えられる作品でもありますが、いかんせんかなり難解です。
それもそのはずです。もうページを開いて読み始めれば、まあ難解な小説かは理解できます。
ですが、トーコはこの作品を読んで、このリズム感に救われました。きっと、気分が落ち込んでいて、かなり不調だからってのもあったんだと思います。
リズムに乗ってさらさらと読める、しかもなんかすごく脈絡があるようで、ないようで、でも絶対にどこかでつながるだろうという確信をもって。
では、作品に行きましょう。
まず、物語の要所というか、区切りには「間奏曲=インタールード」が挟まれています。
この文章は、音読したくなるくらい美しいです。電車の中でも、マスクのなかでは声を発しないようにしていただけで、口だけ動かしていましたから。ありがとう、マスク。
そこには、陽の光、大気、海の波打つ音、庭の木々や花、小鳥のさえずり、室内の光。何の気ないものを描いていますが、この情景を読むだけで一体何が始まるのか、予測がつきません。
登場人物は、バーナード、スーザン、ロウダ、ネヴィル、ジニー、ルイの男女6人。読み返してみると、間奏曲をぬけた最初のページに登場人物が全員書かれていましたわ。
さらに、ここで言葉は発せず呼びかけられるだけのパーシヴァルもいます。なんか、すごく忘れようにも忘れられない存在の人。
なので、登場人物は実質7人です。
最初は短めな文章で、まるで卒業式とかの呼びかけのように情景を語っています。おそらくここは、幼少期なのでしょうね。
ちなみに、どんどん先へ進むと1人の登場人物の発する言葉は、かなり長くなっていきます。渡鬼か、というレベルです。
それにしても、このリズム感のある文章を日本語訳にしても損なうことなく、忠実に再現してくださった翻訳者に感謝です。この訳をした方、正直すごい。
登場人物たちは一応モデルはいます。ヴァージニア・ウルフの身近な人たちとされていますが、あくまで創造の産物です。
幼少期から始まり、少年/少女期、青年期、中年期、老年期、最後は死へと導かれます。
何というか、人生ってこうなのかも。第1幕の終わりのロウダの言葉です。
…略。ああ、夢から覚めるにはどうしたらいいの!ほら、あれは棚の引き出し。この海からからだを引きあげたい。でも大波がおおいかぶさってくる。その巨大な肩と肩のあいだにわたしをまるごとのみこんでいく。わたしは引っくり返され、ころがされる。この長い光線、長い波、終わりのない道に、からだを伸ばされる。人々に追われ、追われながら
この小説の持つリズム感に合わせながら、なんか人生の本質を言われてしまっているような感覚。
波にのまれるのは言葉だけではない。わたしたちの人生も然り。冒頭のインタールードで出てきた陽の光や波によって、皮肉にも感じさせられる。同時に、周りの人間たちにも追われ、終わりのない道のりをたどってゆく。
こうして引用を振り返ろうとすると、あまりにもさらさらと流れる文章のせいか、トーコの琴線が敏感じゃないのがばれているのか、実は記憶にないんですよね…。これは、何回にも分けて読んだ方がいいですね。1回じゃわからんことが多い…。
そうこうしているうちに、こんな言葉が出てきます。
けれどもわたしたち身体に生きる者は、身体の想像力でものの輪郭を掴むのよ。わたしは太陽の眩しい光のもとで岩を見る。こういう事実を、どこかの洞窟に持ち込んで目を陰らせたまま、その黄色や青や暗褐色を見きわめてひとつの実体にするなんて、とてもできやしない。わたしは、ひとところにじっとなんてしていられない。ぱっと立ち上がって行かなくちゃ。
すごく独特の表現です。そして、何か得体の知れないものだからこそ、惹かれてしまうというかなり矛盾したところの理由があります。
多分、現代に生きる我々がすっかり忘れそうになる感覚が描かれています。
身体に生きる私たちは、身体の想像力でものの輪郭を掴む、という表現。見えていない中でものの輪郭を掴むことはできやしない。
ただし、真の意味が未だにつかみ切れていないトーコであります。ただ、引用の前が、
人生が始まり、人生が終わる。われわれが人生を作り上げているのですよ。と、こんなふうにあなたは言うのね。
平凡な人生は私たち自身が作っている。けれど、感覚や想像力でものの輪郭を掴む。決して、平凡なことなんてない。
日常を、人生を作るのは私たち自身で、身体で生きる私たちたちは、ものの輪郭をつかみながら生きている。
ヴァージニア・ウルフの時代にはメタバースという概念はないのでツッコミにくいですが、今の時代だとものの輪郭を掴むことって、忘れ去られそうで怖い。
みなで語りながら紡がれているこの物語も、終盤を迎えます。
ああそれにしても人生とは、なんといわく言いがたく忌まわしいものか!なんと卑劣な手を使うのか。ほんの一瞬自由を与え、かと思うと次の瞬間はこれだ。
これはかなりエンディングの近くなんですが、人生の虚しさがここでは綴られています。そう、ここは老年期です。
そして、最後の一文は、
…略。おお、<死よ>!
波は、岸に砕けて散った。
唐突にエンディングが現れます。というのも、実を言うとトーコは心配していました。この物語は一体どんな感じで物語を閉じるのだろうと。
まさか、人の一生と波が消える瞬間を挟んできた、で終わるんですね。なんか、ちょっとした劇を見終わったかのような興奮感で終わります。
最後に、この作品の総括です。
文章を描くリズムは、まるで水の流れのようです。この作品の印象を1言でと言われたら、水のようにさらさらと流れる静かなリズムに沿って、何かの群像劇が展開されているような小説、だとトーコは言います。つかみどころが一体どこなのか不明すぎる。
とまあ、ここまで読んでいけばお分かりの通り、この作品には明確なストーリーというものがありません。それがこの作品を難解にしている所以の1つなのですが。
ヴァージニア・ウルフは、この作品をプレイポエムと呼んでいました。劇=詩という独特の構造です。
なんだか寄せては返す波のような動きのある作品でした。とてもいい作品です。
■最後に
6人の男女が幼年期から老年期までの各段階を語っています。
まるで何かの劇のように、寄せては返す波のごとく展開され、登場人物の語りは水の流れのようで、つかみどころは分かりにくいかもしれません。
それでも、この作品は人の無意識の感情のどこかに寄り添ってくれることでしょう。