こんばんわ、トーコです。
今日は、黒川祐次の『物語 ウクライナの歴史』です。
■あらすじ
皆さんはウクライナという国をどれくらい知っていますか。
ウクライナは穀倉地帯としても有名ですが、それ以上に大きく、複雑で非常に懐の大きい国でもあります。
では、なぜそういう印象になったのでしょうか。歴史を紐解いていきましょう。
■作品を読んで
なぜ手に取ったかと言えば、もちろんですが、この度のロシアのウクライナ侵攻がきっかけです。
講談社現代新書のツイートで、もっと深く知るための3冊の新書の中にこの作品が含まれていました。というか、この3冊ジュンク堂で特集が組まれていました。
何が素晴らしいって、この作品は中公新書ですし、他にもちくま新書も含まれていて、自社で発行した新書以外もきちんと推薦していることでしょうかね。
トーコもこのツイートの中で知ったもう講談社現代新書を読みたいのですが、いかんせん最寄りの図書館にないので、あとで買います。
さて、本題に入りましょう。
トーコのおぼろげな記憶が確かであれば、ロシアよりもウクライナの首都キエフの方が歴史があったはずです。
この時点でプーチン大統領の歴史観がツッコミどころが満載な匂いがしてきます。
まず、歴史書上最初に登場したのはキンメリア人で、これはホメロスの『オデュセイア』で登場します。なので、紀元前8世紀には既に人がいたことになります。
それからスキタイ人が登場します。スキタイ人は、もともとカスピ海周辺にいましたが、黒海周辺に流れ着き、キンメリア人を追い出します。それが紀元前1500年から700年くらいです。
スキタイ人はやがて国家を建設します。結構戦士として優れており、ギリシア文化にも影響されていました。
ですが、紀元前2世紀ごろにはサルマタイ人という異民族に侵食されていきます。
それから、様々な民族がやってきますゴート人、匈奴の末裔のフン族などの世界史を習っていた方であれば聞いたことがあるかもしれない民族たちがやってきます。
こんな昔からウクライナの周りでは人が住んでいました。意外と早くから住んでいますよ。
それから、ハザール汗国を経て、キエフ・ルーシ公国という国が生まれました。この国がキエフの方が歴史があるはずの国です。10世紀くらいに起こりました。
このキエフ・ルーシ公国は、ハザール汗国への貢物をやめ、独立しました。
オレフという建国者が亡くなった後息子のイホルが継ぐも、徴税を王が自ら取りに行った際に殺されます。徴税がまさかの王さまが引き取りに行くシステムって、斬新ですが。
そのあとはイホルの子のスヴャトスラフが幼かったため、イホルの妻のオリハが後見を務めます。オリハは非常に聡明な方だったらしく、女傑のさきがけの存在でした。
オリハはキエフ公国はアニミズム的な多神教の国でしたが、いち早くキリスト教を信仰し、ウクライナ初の聖人となります。
また、聖ソフィア聖堂やペチェルスク修道院はキエフ公国のころに建てられ、世界遺産にも登録されています。
さらにスターリンによって破壊されたミハイル聖堂は、ソ連の崩壊後再建されます。この破壊される前のミハイル聖堂もキエフ公国のころに建てられています。
キエフの街には1000年の歴史に耐え、存在だけで重みのある聖ソフィア聖堂、近所にはきっとこんな感じでキエフ公国の時代からあったであろう黄金のミハイル聖堂があります。ミハイル聖堂は黄金のドームが有名です。
そんな聖堂をこの目で見たいので、早く戦争をやめてください。ミサイルで壊さないでください、お願いですから。
キエフ・ルーシ公国時代は400の教会が黄金のドームを競い合いように建てていたので、ヨーロッパでも最も美しい街の一つと言われていたようです。
キエフ・ルーシ公国は農業でも栄えていましたが、どちらかというと商業や貿易で栄えていた国でした。
13世紀にモンゴルに占領される時代がありましたが、人口は3万5000人から5万人いました。これは当時から見れば最大級の人口で、ロンドンの100年先をいってます。さらに、総人口は700万~800万人いたそうです。
また、キリスト教の導入により、文化水準は飛躍的に上がりました。先ほど挙げた教会建築や絵画、翻訳なども発達しました。
キエフ・ルーシ公国は単一の民族のルーシ族によって構成されていました。
キエフ・ルーシ公国の後、14世紀にハーリチ・ヴォルイ二公国が滅亡した後、17世紀にコサックがウクライナの中心勢力になるまで約300年ほど空白の時代がやってきます。
この間に、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3民族が分化します。また、キエフ・ルーシ公国からモスクワ大公国、ポーランド王国、リトアニア大公国に分割され、長期間固定されます。さらに、ロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語も発達します。
おお、現代に続く原型が来たぞ。
この約300年の空白の時代は、ポーランド・リトアニアによるウクライナ支配の時代がやってきます。
ちなみにですが、モスクワ大公国は1480年にモンゴルの支配から脱出します。ここでおそらく初めてロシアの原型が誕生する?ということでいいのでしょうか。
それからキエフ・ルーシ公国の領土はうちのものじゃ、と言わんばかりにイワン3世という王が主張します。
約300年の空白の時代といいますが、おそらくソ連が崩壊するまでずーっと国家という国家を持った瞬間が1回しかないです。1917年に独立宣言をした時のみです。
コサックが現れて支配したと思えば、1765年にエカテリーナ2世によコサックによる自治を廃止したり、半分はロシア、半分はポーランドの支配からオーストリアに変わります。
ロシア支配下に置かれながらも、ウクライナのナショナリズムは発達していきます。1830年代にはウクライナに大学ができます。
また、ウクライナの文学者シェフチェンコはウクライナ民族主義と独立運動の象徴的な存在になります。そのおかげでしょうか、ソ連時代の間シェフチェンコの位置づけは歯切れが悪かったそうです。そうでしょうね、軽視し過ぎても、評価ししすぎてもだめでしょうから。
また、オーストリアが1848年(おそらく先ほどのナショナリズム発達と同時期)に農奴解放令を出します。
しかし、これを出しても一般の農民はなかなか豊かになれません。そこで、新大陸への移民が増加します。なので、アメリカには150万人、カナダに100万人のウクライナ系住民がいます。
かなり移民のつながりは大きく、ウクライナ独立直後はアメリカからの援助もあったとか。なのに今になってアメリカが強く言わないのは政権内部にウクライナ系の人がいないんだろうな、と勘繰ってしまいます。
農奴制を廃止しても農民の暮らし向きは明るくなかったのですが、ウクライナは大穀倉地帯となって「ヨーロッパのパン籠」と呼ばれるようになりました。
18世紀末のステップ地帯は広大な土地の取得が安く簡単で、土壌も肥えており、さらに輸出港も近くにありました。19世紀初めは80万ヘクタールから1860年代に600万ヘクタールまで増加しています。
小麦は1910年代には世界の大麦の43%、小麦の20%、とうもろこしの10%がウクライナで生産されています。また、砂糖大根(ビート)の生産と砂糖精糖工業も発達しています。
ちなみに、今日の日経新聞には、ロシア・ウクライナで小麦が世界輸出の3割、トウモロコシは世界輸出の2割を占めています。
作物の植え付けができなければウクライナ、ロシアだけではなく大変なことになりますので、早く戦争を終わりにしてください。お願いします。
ウクライナは、今日も小麦、トウモロコシ、砂糖は主要農産物です。元々肥沃な土地ですが、18世紀末からどんどん発達し、今日に至ります。
また、工業も発達しています。鉄道網が小麦の輸送のために早い段階で設立されます。同時に製鉄所もでき、どんどん発達します。
それから、ロシア帝国から一瞬独立してから、ソ連の支配下に置かれ、1991年にウクライナ独立、ソ連が崩壊します。
なかなかポテンシャルが高そうな国ウクライナというところで、読んでいけばわかると思いますが、外交や地政学的に重要なポジションの国でもあります。
だから狙われてしまうのでしょうが、なぜこのタイミングでバランスを崩しにかかるのやら、と思わずにはいられません。
■最後に
今話題の国ウクライナの歴史をひもといた、なかなかない作品です。
ウクライナの歴史が非常に複雑、かつ現在にもつながる問題の根っこを見ることもできます。
ウクライナという国を理解するのにおすすめの作品です。
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