こんばんわ、トーコです。
今日は、石井好子の『いつも夢をみていた』です。
それからをみていた: よく食べよく歌いよく生きた巴里東京ぐらし (河出文庫)
■あらすじ
あなたは、石井好子という人を知っていますか。
パリでシャンソン歌手としてデビューしたのち、世界中を飛び回り、やがてエッセイストとして活躍します。
■作品を読んで
トーコは著者のことは全く知りませんでした。一体誰ですか、この方?、と。
この作品は著者自身が書いたのではなく、ライターの田中みはるさんがインタビューし、それをもとに書いた作品です。
そのせいか、本書がwikipediaの著者のページに作品としての記述がありません。絶版されていたのも大きいのでしょうかね。
なので、本人が書いたものではないので、他人の目で書かれた自叙伝というなんとも新鮮なポジションの作品でもあります。
他人の目というのも、下手をすれば本人とは違った角度で情景を描くのでそれはそれで面白いのですがね。
さてさて、本題に戻りましょう。
まず、著者のお家のことから。著者は、石井光次郎の2番目の子どもとして誕生します。
父の石井光次郎は久留米の田舎から奨学金をもらい、東京の上級学校へ入学し、去る人に目をかけられて出世し、朝日新聞社の営業局長まで上り詰めます。戦後は政治家にもなります。
母親は久原房之助の娘です。久原房之助といえば、トーコの出身地ではとある企業の基礎を築いた人としてかなりの有名人です。久原房之助自身は明治の怪物とも言われています。
さらに、姉は朝吹三吉に嫁ぎます。えっと、朝吹三吉というのは、朝吹真理子さんのおじいさんにあたる方で、確か彼女はおじいさんの書斎みたいなところにしばらく住んでいたはずです。
弟はブリヂストン創業者の娘と結婚します。…、なんなんだこの一家。
金持ちの名家の人は金持ちの中でしか結婚しないのではないか、と思いたくなります。さらに言えば、家系図恐ろしいです。有名人に必ずつながるというくらいです。
そんな一家の出身の方です。しかし家自体はかなり自由で、通信簿の成績が悪くても文句も言わないし、あろうことか大人が面白がっていることをどんどんやらせてしまう家のようです。
ただし、ピアノのお稽古に関しては母親がうるさかったそうです。それはなぜかと言えば、お母さんが女は独立して生きていけるものを持っていなくては不幸になる、という考えの持ち主だから。
1922年生まれ、今からちょうど100年前にこんなお母さん普通いません。独立して生きていけるものって、何を言い出すんですか。
どうもさすが久原房之助の娘だけあって、お茶碗を洗うより天下国家を論じたいという、もはや生きる時代を間違えた人だったのです。令和はいいっすよ、お茶碗は食器洗い乾燥機が洗ってくれますので、思いっきり専念できまっせ。
ただし、著者の場合はピアノよりも声楽の方が向いていたらしく、それを察知した母親が声楽の先生を付けてくれました。
それから上野の音楽学校に進学します。といっても、戦争が近い時代でも100人受けて合格者16人という狭き門をくぐり抜けています。
当時から8倍くらいの倍率はあったんでしょうね。スゲー。
とはいえ、戦争中に家で発声練習をしていたら、何やってんだと石を投げつけられてということもあったそうです。それはそれでヤバいのですが。
さらに卒業も半年繰り上げられます。男子学生が学徒動員でいなくなるからです。おまけに、学生でなくなれば徴用が待っています。そのため、徴用のがれのため白百合高女という学校で週2回の非常勤講師をしていました。
その時の教え子の1人が、安倍晋三元首相の母洋子さんなのだそう。流石、お嬢様学校。
短い教師生活の後、日向という男と結婚します。この人の実家は豪邸で、財産もあるお宅ですが、著者に歌を続けてもいいと言いました。
しかし、日向は酒を飲むと人が変わるという人で、酒に酔った勢いで知らない人を殴ってけがをさせたので、留置場へ入れられた時についに離婚します。これで5年の結婚生活にピリオドを打ちます。
相当この夫に苦労したみたいです。なんせ、手掛ける事業がことごとく失敗し、うまくいかなくて酒浸りになるという救いようのない悪循環、
けれど著者は、夫が結成したジャズバンドで歌手としてデビューします。しばらくして離婚します。このころが1番みじめで不幸だと本人は回想しています。でもいいじゃないですが、歌手としての仕事はまだあるのですから。お母さん先見の明があったんですかね。
離婚した後、サンフランシスコへ留学しに行きます。なんとこの旅費を工面するために、父は別荘を1つ売ったそうです。すげーとしか言えない。
それから帰国前にパリに1週間くらい滞在しようと思い立って、パリに行きます。ところが、パスドックという店に行き、シャンソンのレッスンをお願いしたいといい、歌ってみたら、大好評でした。さらに、ここで歌ってくれないか、と職まで提供されるのでした。
そこから4年間パリに滞在し、日本に戻ります。しかし、勝手にコンサートが企画され、しかも本人が断れないところまできていたり、契約が明確でないなど、日本で活動するならマネージャーが必要だという教訓を得て、再びパリに戻ります。
それから、土居という小学校の同級生とニューヨークで偶然再会します。2人はここで恋に落ちるのですが、土居には妻子がいました。
なので、土居が正式に離婚するまで5年の歳月をかけて結婚します。土居という人は最初の夫とは真逆の人で、どちらかといえば学究肌の静かな人だったそう。
ですが、この記述を読む限り2人は幸せだったのだと思います。きっと穏やかな家庭生活だったのだと思います。
同時に音楽事務所を開いては閉め、味方だった父親や夫が亡くなったりと辛酸をなめることも多かったです。
この音楽事務所ですが、最初はものすごく繁盛したのですが、ソ連からの楽団を呼ぼうとしたら失敗し、すでにチケットを売り切っていたので大赤字になり、その後新人が育たないなどの様々な要因が重なって事務所を閉めたそう。
その際借金も背負ったのですが、著者曰くちょっとやそっとで驚かないくらいの肝が据わったそうです。
事務所を閉めた後も著者はシャンソン歌手として活動をし続けてはいます。
著者曰く、歌が私の生きがいです、というくらい歌が好き。けれども、こうも思っています。
歌うたいというのは、よい仕事をしないと仕事がこなくなるわけだから、失敗したら再びお呼びがかからなくなるんですよ。何となくやっていますというんじゃないのよ。
…略。幸運の波にのっていても、ずっとのっていけるとは限らないのね。やがて落ちてしまうこともある。そういう例をたくさん見ています。
辛酸を嘗めたからこそ出てくる言葉です。幸運の波に落ちないように、というか落ちたとしても再び乗れるようにするために努力し続けた人のことばです。
ここではあまり料理についてのエッセイを取り上げませんでした。それはまた別の機会に、としましょう。
家柄があまりにもいいのできっと幸せな一生を送ったのかと思いきや、最初の夫と離婚し、ひょんなことからシャンソン歌手としてパリでデビュー。
日本に帰国後、音楽事務所を設立する傍らエッセイストとしても活躍し、土居と運命的に結婚し、やがて死去。それでもシャンソン歌手として生きています。その割には、軽やかな文章で語られています。
波乱万丈でなんか強いなあ、と思います。解説はこれも川上弘美さんですが、他のエッセイと違い、石井好子の強い意志を持ち、そのためには人生の甘さだけではなく苦さも進んで引き受けてきた姿を見ることができます。
だからこそ、第三者による聞き書きが利いているのだと思います。自我を見せずに自分のエッセイを書いていたので、第三者によって客観的に内面が描けたのだと思います。
どちらかといえば、今の時代の方が理解できるかもしれませんね、彼女のこと。
■最後に
これまでのエッセイで見ることのできない、石井好子の内側が見えてきます。
人生の甘さや苦さをきちんと引き受けてきた人が軽やかに語る、自叙伝です。
[…] 石井光次郎はシャンソン歌手石井好子の父親です。以前にも紹介はしています。346.『いつも夢をみていた』 […]