こんばんわ、トーコです。
今日は、イレーヌ・ネミロフスキーの『アスファール』です。
■あらすじ
ダリオ・アスファールは、フランスに生きる貧しい医者でした。彼には、苦楽を共にした妹のような妻と生まれたばかりの子供を抱えていました。
やがて、彼は裕福になります。様々な戦いを経て…。
■作品を読んで
まず、著者のイレーヌ・ネミロフスキーについて。というのも、トーコもよく知らないから。
イレーヌ・ネミロフスキーはウクライナのキーフに生まれ、1918年のロシア革命時にパリに移住し、ソルボンヌ大学に入学します。
そこでロシア文学を専攻し、1926年に銀行員と結婚後長女をもうけます。作家デビューは1929年で長女がちょうど生まれたころです。
それから文学作品を次々に発表するも、彼女はユダヤ人でしたので、1942年にホロコーストによりアウシュヴィッツで獄死します。
なので、作品を発表した期間は13年くらいでしょうか。長いとも短いとも言い難い期間ではあります。
この「アスファール」という作品は、1939年5月から8月にかけてフランスの有力な思想・文芸誌に連載されていました。
連載が終了した1939年9月、ナチスドイツはポーランドに侵攻します。世の中はかなり緊迫した時期でもありました。それとも突然戦争が始まったのかな、ウクライナのように…。
連載が始まった5月にはセントルイス号の悲劇という事件が起こり、脱出を試みたユダヤ人たちがどこにも寄港することができず、最終的にホロコーストの犠牲になりました。
そんな時期にユダヤ人を題材にした小説を発表しました。この時期にこの題材で発表することは、著者にとってもいろいろなものを覚悟しないといけなかったことでしょう。ユダヤ人からも反ユダヤからも反発は必須だったと思います。
それでも、彼女はこの作品を書き上げることを選びます。当時の世の中にある対立は、ユダヤ人である著者にとって避けることのできないことですし、それらをすべてを投影したとても濃密な作品となりました。
すごく長く作者の紹介をしましたが、そろそろ作品に移りましょう。
ダリオ・アスファールは、レヴァント出身のユダヤ人で、フランスの学校で医師免許を取得し、フランス国籍を持つ35歳の男です。
彼には妻クララと生まれたばかりの息子を抱えていました。
しかも妻は入院しており、妻には病院は患者でいっぱいと嘘をついているが、入院費を稼げず、とても貧しく、生活がままならない状態でした。
のっけからダリオの「お金を貸してください」という憐れなお恵みから(正確にはいつか返さなければならない)スタートします。
マルト・アレクサンドロヴナという将軍夫人と呼ばれた女性に借金の申し込みをします。それくらい生活がままならないです。
ダリオはフランス国籍をとり、形上はフランス人ですが、実際はよそ者扱いをされ、移民たちが多く住む街で住んでおり、フランス式のおしゃれなものとは全く無縁の生活を送っています。当然貧しいですから。
マルトは息子がエリナーという女と結婚し、食わせないといけない人が増えているので借金を断ろうとしていますが、何とか約束を取り付けます。
しかし、次の日にマルトの息子のミテンカが自殺未遂を起こします。ミテンカは一命をとりとめるも、ダリオはお金が借りれずに窮地に陥ります。
ダリオは給仕長のマルティネッリを頼り、どうにかこうにかしてお金を借ります。1年で1万フラン借りることに成功します。
ダリオはこれで落ち着くのではないか、と予感します。この章の終わりに、ダリオはこう思います。
1年以内にダリオが払わなければ、不渡り小切手の振り出しで起訴されるだろう。だがついぞその日の暮らししかしてこなかった者は、先の用心も、金持ちの美徳も、幸福な者の美徳も知らない。ダリオはサインした。
故郷を脱出し、勉学に励みやっとの思いで医師免許を取得しても、結局は昔と同じようにその日暮らしのまま。
しかも、なまじ医師免許を取得してしまった以上、職業に見合った見栄は張らないといけない…。
先のことは知らない、ましては金持ちでも何でもない、医者だけど…、という状況下でサインします。
それからダリオは、マルティネッリから働いているホテルに泊まりに来ている客を推薦し、ダリオに協力するようになりました。
その中に、賭博狂のフィリップ・ワルドに出会います。金持ちではありますが、とんでもなく賭け事に憑りつかれています。
なんてたって、終わる瞬間の不安から解放される幸福たるや…、という文章がワルドの章の頭で描かれているのですから。かなりヤバい人です。
その後、ワルドの正妻のシルヴィに出会います。
出会った当時のダリオにとって、シルヴィは完璧な存在でした。生まれながらの裕福さ、洗練されたたたずまい等、ダリオが持っていない、欲しくても手に入れることができないものをすべて持っていたからです。
ダリオにとってはシルヴィは憧れの存在になります。その時にダリオはシルヴィになぜか自分の呪われたと思っている出自を独白します。
それを聞いた後シルヴィは、奥さんと子供の話をして、と頼みます。そして、こう言います。
あなたがおっしゃる呪いは、あなたにかかっているとしても、あなたのお子さんに触れる前に消えるでしょうね。だって、彼は、幸せな環境の中で、いい人たちの間で生きるでしょうから。あなたの願望も、あなたの公開も、彼が知ることはないでしょ。それで充分なのでは?
裕福な人なりの洞察です。現実に息子のダニエルにダリオの生き方が全く理解されないことを予感させるセリフでもあります。
それから、ワルドとシルヴィがパリに移住するのと同時に、ダリオ一家もパリに移住します。
さらに、将軍夫人の息子をたぶらかせたエリナーもワルドの愛人としてパリに移住し、ダリオはエリナーに接触します。
エリナーはワルドの治療をダリオに依頼します。2回目になるのでしょうか、精神分析を駆使しながら治療にあたります。
そこから時が飛んで13年後。治療院にかかるには高い金が要るようになり、ダリオはかなり裕福になりました。
家は豪邸にきれいな庭園、自慢の絵画コレクション。恐慌の時代がやってきて、患者が治療費を払えないといっても新しい患者がやってきます。また、クララのほかにも豪勢な女たちを愛するようになっていました。
一方妻クララですが、このころにはかなり弱っており、病弱の身となっていました。
息子のダニエルも成長し、16歳になりました。ここで、まさかのダニエルもシルヴィ・ワルドと知り合いになっていました。
クララは不安のあまり、ダニエルがシルヴィ・ワルドと会わないようにしたことをダリオに言います。同時にクララは、ダリオのシルヴィに対する思いを確認します。そりゃ、息子がまさか父親と同じ女に想いを寄せていると知ったら、動揺はするでしょう。
その時のダリオの返しです。
恐ろしいことだが、俺はもう女を純粋に見ることができん、クララ!俺はもう汚点と悪を探して発見せずに人間の魂を見ることができないんだ。クララ、西欧社会への幻想は俺にはもうほとんど残っていない。俺はそれを知ろうと願い、知ってしまったんだ。
とまあ、恐ろしいセリフを言います。ここまでたどり着くまでに、見なくてもいいものを見てきた男の言うセリフだと思います。
同時に、西欧社会で何かを得ようとして必死にもがいていた日々に見たものは、幻想への幻滅だったというオチです。まあ、今までを読んでいればわかることでしょう。様々な差別や苦しみの中で妻子を抱えながら医者としての成功を夢見ていたのですから。
さらに、ダニエルはダリオがエリナーと結託してワルドを治療という名の監禁していることを知ります。ダニエルはそんな父親に幻滅します。
しかし、ダリオは息子に向かってこう言います。
俺が誰のために金持ちになろうとしたのか?母さんとお前のためだ。俺よりいい人生をお前にくれてやるためだ!お前が飢えも、試練も、悲惨も知らずにすむように、お前のため、お前の子供たちのためだ。お前が今日俺にくれる歓びの百倍報われるためにだ。お前が正直で、無欲で、高潔で、善良で、汚れなくいられるためにだ、名家のお生まれみたいにな!
(中略)。だからって俺は驚きも、心配もせんぞ。それは俺の道理の内だ。(中略)…、俺を打ち砕くその美徳をくれてやるなら。俺は弁解しない。それは俺には似合わん。
まあ、ダニエルもなかなかの甘ちゃんだということがわかりますが、親がうまく隠し続け過ぎた結果でもあります。その結果、息子は父親を理解できません。
けど、父親が犯罪すれすれのことをし続けた結果得た今の暮らしも否定することになることも、ダニエルは分かっていないのではないかと思います。
そして、何よりダリオのゴーイングマイウエーっぷりに驚きます。肉親を守るために必死に生きた自分を肯定しています。誰に言われようが関係ない、息子にだって言われることをわかっていたくらいですから。
そのさなかに、今度は病身のクララが亡くなります。ダリオとダニエルは死を見届けます。
それから、ダリオはエリナーと再婚します。その頃にはエリナーはワルドを亡くしており、未亡人となっていました。
ダニエルは一瞬帰ってきて、クララの鞄と下着類を持って家を出ます。
ダリオは息子に会うのは遺産を相続する時だろう、と言います。どんなに自分の人生を生きることになっても、最後は相続のために戻って来ると言って。ひょっとしたら、その頃でさえ、息子は自分のことを許さないだろう、と。
結局、自分の人生を生きるのは自分の力かもしれませんが、最後はお金になることを予見して。
差別、分断を子供に体験してほしくなくて、必死に働いて得たものはまさかの家族の分断でした。ダニエルにも、そんな父親の血が流れています。そこは自覚していないようですが。
長くなりましたが、なかなか濃い作品です。
■最後に
医者になったとはいえ、レヴァント出身の独特の風貌の貧しい男が、妻子を守るため、様々な出来事を得て、豊かになります。
その過程には、西欧社会への幻滅や人間への侮蔑など様々なものが犠牲になりました。それでもしぶとく生きた男の生きざまが刻まれています。
差別、分断など第2次世界大戦寸前の頃と本質的には変わらない問題がたくさんあります。