こんばんわ、トーコです。
今日は、イアン・マキューアンの『愛の続き』です。
■あらすじ
科学ジャーナリストの「ぼく」は、英文学者の恋人とピクニックに出かけるも、気球の墜落事故に遭遇する。
そこで奇妙な青年バリーと出会うも、なぜか付きまとわれる。付きまとわれることで次第に恋人との関係もおかしくなっていく…。
■作品を読んで
まずは、これまでに紹介したイアン・マキューアン作品です。87.『未成年』この作品は、結構倫理的にえぐってきます。
この作品は、「Jの悲劇」という名で映画化されています。2005年10月のお知らせ文に書かれているので、9月くらいに出版されていたのでしょうね。
2005年か、トーコは中学生だったんだな…。記憶にあるわけない。
お知らせ文のその上に書いてあった三島由紀夫の「春の雪」は記憶にあるけど。竹内結子さん、もう見れないんだな…。
しかも、この新潮文庫のお知らせ文、フォーマットがほぼ変わっていない気がする。まあ、新しい文庫の情報や映画の情報と必要最低限だからかな。
まあ、いいでしょう。そろそろ作品に行きましょう。
科学者になれず科学ジャーナリストとして原稿を書くジョーと恋人で英文学者のクラリッサは、まぶしい日光のもと外でワインを開けているちょっといい休日の描写から始まります。
ところが、そこで男の叫びが聞こえてきます。気球か落ちてきそうになっていました。なにやら現場はパニックです。
ブログ用にさっくりとした描写にしていますが、実際は現場はパニックに陥るも、ジョーの目線でかなり冷静に、かつとても臨場感にあふれた描写になっています。
その中にキーパーソンである、バリーの描写が含まれています。一体何のためにこいつが描かれているんだ、と疑問ですが、すぐに氷解します。
で、平凡な休日になるはずの1日の描写の終わりに、ジョーはこう思います。
ぼくらは何にむかって走っていたのか?ぼくらの誰ひとり、今後も完全に理解することはないだろう。表面的に言えば、気球だ。
…中略。
ぼくらは惨事にむかって走っていたのだが、その惨事もまたひとつの炉だったのであり、自己や互いに対するぼくらの認識も、そしてぼくらの運命そのものも、その熱に融かされて新しい形をとることになった。気球の底部にはかごがあってその中に子供がひとり、そしてかごのそばでは男がロープにつかまって助けを求めていた。
えっと、ここでトーコのためのおさらいですが、融かされては「とかされて」と読みます。融かされる、というのは、溶けると意味は一緒で常用漢字ではないです。
おそらくジョーが科学ジャーナリストだからこの漢字をあてたのだと思います。溶融と一緒ですからね。あ、この2文字意味一緒や。
溶融も科学に関連する言葉のような気がします。
中略で省いた描写のなかに、ヘリウムという言葉が出てきます。で、ヘリウムの科学的な描写もあります。
そして、惨事にむかっていく中でこの物語の結末を予見するような言葉もありますし、現場の描写もありと、この引用は結構盛りだくさんです。
事故を目撃した後、2人は事情聴取に巻き込まれます。放心状態のなか、ジョーはバリーを初めて認識します。
しかもバリーはジョーにむかってかなり怪しいことを口走ります。
「ええ、ぼくらは知り合いじゃあないし、あなたがぼくを信用する理由もないです。でも、神様はぼくらをこの悲劇で結びつけたんであって、ぼくらは、そのう、これを理解する努力をしないと?」
(結構中略)
「分かってないんだね。義務とか、そんなふうに思っちゃいけない。なんていうか、求めてるものが与えられるような感じ?ぼくにはほんとに関係ないことだから、ぼくはただのメッセンジャーで。神様の贈り物なんだ」
悲惨な事故が起こった時に何言ってんだこいつ、クラスのことをのたまいます。
この引用の解釈は、ジョーはバリーを愛し、バリーもまたジョーを愛するという偶然に絡めようとしていたのです。なんと無茶な…。
しかし、これを機にジョーはバリーに付きまとわれることになります。家の近くに勝手に押しかけたりとか、もはやストーカーです。
物語の中盤くらいからは、ジョーと恋人クラリッサとの関係性にまで影響を及ぼすようになります。
バリーから来た留守番電話をジョーが消したことで、クラリッサは聞くこともできず、ジョーの今の状態を共有することもできません。
ジョーもクラリッサがあまりにも無関心なことにいら立ちを覚えます。
2人はちょっとした言い争いをします。お互いにお互いのことや、ケンカした時のこれまでの自分の傾向等いろいろ分かっています。大人ですからね、って違うか。
この先の展開は、この文章に凝縮されている気がします。
けれどもいまや二人は止めることのできないゲームを始めてしまったようで、あたりに気遣いのかけらもない雰囲気が立ちこめる。
喧嘩ぽっく書かれていますけどね。一触即発?というよりも、クラリッサがジョーのことを静かに避けるようになります。
一体どこに行くのやらと読んでいるこっちは十分混乱している中、さらに混迷を深め、不穏な空気が漂います。
そんな時に、ジョーは事故で犠牲になった男の家族に会いに行きます。そこで、妻のミセス・ローガンが出てきます。
彼女はジョーに、「夫ともに女が乗っていなかったか?」と聞きます。ジョーはそんなことはない、と返しますが、ミセス・ローガンは信じません。なんだこりゃ、な展開を見せていきます。彼女も妄想というか、愛の物語に憑りつかれています。
そして、ジョーもついにクラリッサが浮気をしているのではないか、と疑い始めます。この2人も完全に歯車が狂い始めます。
始めは家庭内別居(正確には2人は婚姻はしていない)ですが、物語の終盤でクラリッサは家を出ます。
また、ジョーは科学者の落ちこぼれでしたが、科学ライターとして成功しています。バリーとかかわってくる中で、科学者としての自分という姿を見いだそうとします。
バリーをド・クレランボー症候群という病気ということで精神分析します。なんか、かなり多面的になりましたね。
まあ、ミセス・ローガンの妄想も解消され、それを見たジョーとクラリッサも二人の仲が取り戻るのではないか、と予感させる描写がなされています。
この作品の最大の魅力は、訳者が語っています。
「愛」も「裏切り」も「科学」もそうだ。われわれは退屈な日常のなかで物語を夢想せずにはいられない。しかし物語はまたわれわれを狂気にいざなうものでもあるのだ。小説という物語の作者として、マキューアンはその事実に魅了されている。魅了されつつ、彼は物語の魅惑の構造を吟味し批判し解剖しつづける。
物語の中で登場人物たちがいろいろと妄想しています。その物語が狂気を生み、読者にミステリアスな世界を見せていきます。
著者はそれを見事に熟知しております。すごい、すごい。なんか、いろいろと計算されつくされています。
■最後に
かなりサスペンスのような展開をしながら、偶然と妄想がうまくループ状にからみ合っています。
物語の持つ狂気によって、読者にミステリアスな世界を見せていきます。