こんばんわ、トーコです。
今日は、イザベラ・ディオニシオの『平安女子は、みんな必死で恋してた』です。
■あらすじ
この作品は、古典大好きなイタリア人の著者が、東洋経済オンラインで連載されている「日本人が知らない古典の読み方」から抜粋したものです。
平安女子は一体どんな恋をしていたのでしょうか。
■作品を読んで
これは面白いです。こうやって見ると面白く変わるものなんだな、と思わせてくれます。なんか、トーコの高校の先生を思い出させてくれます。
伊勢物語を専門にしていたので、伊勢物語になるとすごく熱いわ、面白く茶化すわでいろいろ大変だったことを思い出します。
高校の古典の授業を受けながら、これはこうすれば面白いのにね、と思ってました。
そんな面白さを再現している(⁉)、とてもとっつきやすい作品です。
さて、平安女子はどんな感じで恋をしていたのでしょうかね。まずは、和泉式部です。
トーコは和泉式部のことをよくわかっていなかったので、この作品を読んで初めて知ります。というか、著者は和泉式部のことをこう評します。
平安時代にはいわゆる女流日記文学が盛んに創出され、奔放に、そしてドラマチックに愛を生きた女性たちの姿がそこにありありと綴られている。その中でも和泉式部ほど欲望の道をとことん極めた人は珍しい。危険な情事のパイオニア、ドラマクイーンの草分け的存在と言っても過言ではない、感情の激しさと稀に見る美貌は、歴史に名を刻んだこの歌人のトレードマークだ。
そ、そうなんだ…。なんか衝撃のスタート。ここまで自由に書けるとは…、脱帽。面白いけど。
というか、和泉式部って意外と気が強いです。
藤原道長に「浮かれた女の扇子」と落書きをされたときに、「アンタ、私の夫でも恋人でもないクセに」という意味の歌をスラスラと書いて突っ返し、何事もなかったかのように去っていたとか。
相手は時の権力者で自分の雇い主なのに、それで反応するというのですから、結構この人怖いもの知らずです。
では、この人の男遍歴を見ていきましょう。最初の夫は橘道貞。ここから恋愛伝説のはじまりです。
結婚当初からどちらかの不倫が発覚し、いつの間にやら自然消滅状態に陥ります。そんな時に、チャラ男の為尊親王が新しい彼氏になります。
和泉式部の家は、受領の娘で人妻、子持ちなので、いろいろと身の丈に合っていません。しばらくすると宮廷内に噂は広がり、親に勘当されます。
さらに、追い打ちをかけるように為尊親王がなくなります。和泉式部は悲しみに悲嘆にくれます。
しかし、今度は為尊親王の弟の帥宮(そちのみや)敦道親王に恋をします。
平安的不倫マニュアルと著者が言う、『和泉式部日記』には宮廷もびっくりのスキャンダラスなアバンチュールが語られています。
たった10ヶ月の間の出来事らしいのですが、内容が濃いらしいです。そう言われてしまえば、読みたくなる。ああ困った。
その分析も著者のセンスに選ばれた言葉で語られるせいか、まあ面白い。第1章の最期で。『和泉式部日記』についてこうまとめます。
『和泉式部日記』はもちろん正真正銘の愛の物語だ。愛の罠にどっぷりハマっている二人の恋人の荒い息遣いは和歌の応答一つひとつを通して、リアルに伝わってきている。だが、それと同時に、それは愛に人生を捧げた和泉式部の立派な履歴書でもある。彼女は文字通り命そのものを消費して、愛にかけたのだから。
なるほど、これはすごいや。これなら教科書には載りにくいわね。
何だか、恋って、美しくて切なくなって、夜も眠れない緊張感、胸が締め付けられるほど好きという感情は、現代と何ら変わりはないのですな。
その次は、ヲタク気質な菅原孝標娘、謎の美女小野小町、恨みつらみのすごすぎる藤原道綱母、今でいうバリキャリの清少納言と描きっぷりが凄いです。
こう紹介されれば、絶対に興味持つと思うのですがね。
そして、この作品の最大の特徴でもある、古文の超訳っぷりもすごいですからね。現代語に見事に置き換えているので、かなり笑えます。
というか、古文を現代の言葉遣いでここまで訳せるってかなりのことですよ。しかも著者はイタリア人なので、日本語そのものを相当理解しています。
この面白さを再現して紹介するのは不可能な気がするので、気になる方は是非読んでください。
最後に、「ダンテVS平安女子」という章から。
イタリア人にとっての古典は、ダンテ作品のようです。
著者曰く、ダンテの難しさは次元が違います。というのも、哲学から宗教、なれたと思ったら政治の話。しかも政治の話というのも国家の話ではなく、近所の出来事レベルの話。
このように高尚な話からくだらないことまで、すらすら書いてしまうのだから、予備知識なしには読みにくい。
これを高校生で読むそうで、まあ聞くだけ大変そう。しかも、3年かけて。
というか、当時の人もダンテが生きていたころから出回っていた解説本を読んで理解しようと試みたそうです。
なので、ダンテがトラウマになる人もいますが、中毒を起こす人もいます。みんなには言えないけど、なんかかっこいいぞ、と。
大方の予想通り、著者は中毒になった方です。それから日本文化にも中毒を起こしていますけどね。
ありがたいことに、なんとなくですがダンテの「新生」の障りだけは理解できます。
この話って、ベアトリーチェという9歳の時に出会った女の子を終生愛し、憧れが妄想につながってしまった話のようです。
ちなみに、ダンテはベアトリーチェとは結婚せず、ちゃんと本妻がいます。よく許したもんだわよ、本妻さん。
物語を書くうえでたくさん妄想し、その妄想の結果が後世にまで残る素晴らしいイタリアを代表する文学となったのです。
なんでダンテはこんなふうにして書いたのでしょうか。著者はこう言及しています。
たとえベアトリーチェが苦悩に満ち溢れたダンテの詩を読むことができたとしても、きっと理解できなかっただろう。(中略)…、当時の女性が受けていた教育を考えてもチンプンカンプンだったに違いない。というよりむしろ、相当な知識人でもお手上げの謎解きの文面になので、ダンテはそもそも彼女に気持ちを伝えようなんぞ考えていない。自ら作り上げた完璧な女性像を壊したくなかったからこそ、彼は生身の女より文学を選んだのかもしれない。
おお、平安女子とは全く違う観点ですわね…。
平安女子たちの歌う歌というのは、ドロドロでとにかくリアル。ダンテなんてこうしてみると、結構お花畑…。
こうしてみると意外と古典って面白いものです。
■最後に
イザベラ超訳によって、かなり面白く、古典文学も近くに感じることができます。
本当に、平安女子って恋に命を懸けていたんだな、と思いますし、読めること自体が贅沢なんだよ、と教えてくれます。