こんばんわ、トーコです。
今日は、朝吹真理子の『流跡』です。
■あらすじ
1頁も本が読めないと思っているうちに、舟頭になり、いつも間にやら様々な風景を見ている。
流れるようにことばが漂う作品です。
■作品を読んで
まずは、これまでに紹介した朝吹真理子作品です。
この作品の印象は、なかなか斬新だなと思いました。なんか、脈絡がないように見えて実は1本の線でつながっている感じ。
川の流れというよりかは、習字で使う筆の字のような流れ方をする作品な気がします。するすると流れていく感じがなかなかないです。
なんという、つかみどころの表現が見つからないコメントでしょう。実際に体感した方がいいので、読んでみてください。
さて、本編に行きましょう。
この作品は、「流跡」と「家路」という2作の短編が収録されています。最初は「流跡」です。
まず、冒頭の3ページ分まさかの段落の区切りがありません。そのせいか、かなり文字で真っ黒です。
しかも、読んでも読んでも進まない、それも何日もという謎の告白から始まります。そこらから3ページ分ほど段落の区切りなく文章が続きます。
この3ページの終わりがこの言葉でいったん閉じます。
細胞液や血液や河川はその命脈のあるかぎり流れつづけてとどまることがないように、文字もまたとどまることから逃げてゆくんだろうか。綴じ目をつきやぶってそして本をすりぬけていく。流れていこうとする。はみだしてゆく。しかしどこへ―
何だか、この作品を通して何かの実験をするのでしょうか。流れるということにすごく重きというか注目がゆくようになっています。
どこに向かうのでしょうか。この時点では全く読めないと思います。少なくともトーコはそう思いました。
すると次の段落で、もののけか、おにか、と言っている間に人のかたちが現れます。
さらに、褌一丁で筮竹を持ってという描写から、どこか別の世界にタイムスリップしたような場面になります。
そこから、桜並木に大きな白い布を張って映画が映し出されています。スクリーンに映る景色が雪か桜かわからなくなりながらも、なんかどこかで見たことのあるかもしれない風景。
もうじきクライマックスというところで、まさかのフィルムが止まります。クライマックスにたどり着かない映画からまた場面が移ります。
それから海上にせり出す大きな神社の参道につきます。なんだか、厳島神社のような場所をイメージしてしまいます。
そこで装束を着て舞を舞っています。かと思えば、いつも間にやらぐちゃぐちゃになりながら、舟に乗り、夜空の星を見ています。
しかし、いつも間にやら船頭になり、舟に乗って浮遊しています。へどろやUSBメモリという言葉で相当時代が変わったんだな、と感じさせます。
男はひらすら闇夜に棹をさし、腰をつっぱらせます。帰る場所ってどこだっけ。女房を殺したんだっけ、同僚を殺したんだっけ。わからなくなります。一体自分のストーリーがわからなくなります。ある日のこと、ついにある場所にたどり着きます。
その描写が終わると、また新たな場面が登場します。よく読まないといつも間にやら人物が変わっています。
妻と発話の遅い子どもがいる会社員の男が出てきます。いつの間にやら梅雨の時期に突入し、雨が降っています。
テレビのCMを描いている光景が、とてもこの作品を近く感じさせます。よくあるからで、きっと脈絡のないなかでも、非常に安心する光景だからでしょう。
この状況をこう描きます。
こうして起伏のない日常が過ぎる。単調、というのはなにもいけないことではない。むしろ単調はときに幸福であるにちがいない。
多くの人がテレビのCMが流れている様子をこう描くでしょう。
男を取り巻く日常は雨とともに彩られています。川はないけど、雨音によって流れる日常がそこにはあります。水という意味では舟頭と共通していますね。
本を読みながら、少年が青年になり、中年になります。また同時に、同僚が亡くなります。死が少しずつ身近に感じていきます。
ロータリーで待っているとき、バスやタクシーの間から金魚が現れます。魚がまるで帯のように回っています。
その帯のなかに入りたいと男は願います。しかし、妻や子どもにパパと呼ばせています。そう、背中には男の実人生があるのです。
しかし、今は忘れようと男は思います。いつの間にか梅雨は明け、夏が来ます。
今度は女になりました。場面は唐突に変わります。港の定食屋におり、波止場に向かいます。もう死んでいるものかと思っていたのに、しぶとくいます。
水が流れている光景とおだやかに波が寄ってはくだけの光景を描いたら、文字が流れる光景を描きます。
キーボードで入力される文字の光景です。なんと冒頭とほぼ同じ内容をPCに打ち込んでいる様子に置き換えただけという、これこそ既視感マックスの光景が見えてきます。
なんと、最後は引用した部分で閉じます。しかしどこへ。読者もどこかへ連れていかれたままな気がします。
短編の後に、著者と堀江敏幸との対談が収録されています。堀江さんも、この作品は何だか得体の知れない、わからなさの輝きがある作品と評しています。
しかも、これはデビュー作でもありますが、そういうことを一切感じさせない作品でもあります。
堀江さんの分析によれば、対談の中で割と著者の書き方が造形美術に近く、完成したら瞬間には手の施しようがない。何十年と創作してようやくたどりつく境地にたどり着いている。
イメージがふわっと浮かんで、言葉を当て込んでいるというという状況なのかもしれませんね。
水を中心に据えており、水の記憶かと思いきや、いつの間にか忘れるという忘却の記憶もセットだったのですね。
あー、結構これ凄いわ。
■最後に
流れる水とともに、様々な情景が移ろいでゆき、同時に忘却の記憶もセットになっています。イメージと言葉が絶妙に嚙み合わさっています。
また、書くことと読むことの終わりのなさも見えてくるかもしれませんね。