こんばんわ、トーコです。
今日は、ヤマザキマリの『CARPE DIEM 今この瞬間を生きて』です。
■あらすじ
ちょうどコロナ禍でイタリアに帰ることができなかったころ。同時に母親の死があり、いろいろと弔いごとが続く中で感じた死生観についてまとめられています。
■作品を読んで
まずは、これまでに紹介したヤマザキマリ作品について。
250.『ヴィオラ母さん』 252.『仕事にしばられない生き方』
250の『ヴィオラ母さん』は、当時は珍しい著者の母親の型破りな生き方を描いています。亡くなった母というのは、この方のことです。
さて、タイトルの「CARPE DIEM」。カルペ・ディエムと読みます。古代ローマ時代の詩人ホラティウスのラテン語の詩から来ています。
意味は、「その日を摘め」。「今この瞬間を楽しめ」「今という時を大切に使え」という意味でしょうか。
すごいっすね、2000年以上も昔からそんな詩があるのかい…。
タイトルだけで、究極の言いたいことがわかったところで本編に行きましょう。
では、目次です。
- 生きて死ぬ摂理
- 老いの価値
- 善く生きる
- 私の老い支度
- 母を見送って
第1章は、著者なりに考えた死生観が語られています。
若さに重きを置いているのは人間だけ。これはトーコの個人的な考えですが、日本人ほどアンチエイジングに頑張りすぎている民族はいないのではないかと思ってますが…。
ちょっと印象に残ったのが、
自由とは決して楽なことでも素敵なことでもありません。本当の自由とは、「孤独との共生」であり、コントロールが難しく、時には社会に拘束されない生き方が人から疎まれる
『ノマドランド』という映画を見て感じた著者の言葉ですが、いやその通りだわ…と思います。
これを乗り切れるか乗り切れないかで、フリーランスとして成功するかしないかが変わるんだなあと思います。
だから、東京が1番やりやすいのでしょうね。とまあ、横道にそれてみます。
いずれにしても、「死」から避けたり、逃げたりすることができないものです。ちなみに、著者は息子さんと時折死んだときのことを話すのだとか。
第2章です。「老いの価値」と言われても、若い者にはピンとこないし、歳を取った後に読んでも手遅れか、と思われるのかもしれません。
ただ、これだけを意識すればきっと大丈夫なのでは…、と思っていますが。
外側の入れ物がどうであれ、中身は生身の人間であり、彼女たちが辿ってきた道、知性、そしてどんな困難にも恐れずに全身でぶつかってきた、その力強く生きる姿勢こそが、彼女たちの持つ魅力や美しさを司っているのです。女性である以前に人間として、経験しておくべき試練をすり抜けてきたからこそ、独特のオーラを纏うことができるのです。精神と知性を鍛え上げることによってつくられる中身の美しさは、外観を凌駕するものとなるのです。
シャネルという人が言ってたのですが、「20歳の顔は自然の贈り物。50歳の顔はあなたの功績。」
20歳のトーコはお世辞にもかわいい顔とはいえず、モテとかの世界には無縁でした。本はよく持っている学生でしたけど。
でも、30年後の顔がもしかしたら変わっているかもしれない。これから先人生に真剣に向かったり、必要に応じて努力していくと一体どんな顔になるんだろう、と思ったのもまた事実です。
とりあえず、3分の1が終わりました。あと2年で半分が終わるんだ…。20歳に思っていた人生とは違うけど、悪くないよ。
それにしても、人生あっという間だわ…。
上記の引用を打ち込みながら、シャネルの言葉を思い出したところです。てか、著者のお手本に挙げられている女性の一人はまさかのマルグリット・ユルスナールでしたが…。
第3章は、結構耳の痛い言葉が並んでいる気がします。老害になりたくないけどね。
章の最後に絵描きを例にこう述べています。
絵描きを目指す人は誰でも「なぜこんなことをやらなきゃいけないのだろう」「こんなことをしてなんの意味があるのだろう」という巨大なな壁にぶちあたります。…(略)。そして、その壁をよじ登れなかった人が、絵を描くことを挫折したり、病気になったり、時には自ら命を絶ってしまう場合もあります。
…略
ところが、この壁をよじ登って向こう側に行けた人たちの多くは、老齢になっても毅然と絵を描き続けていくわけです。何はともあれ、寿命を満遍なく生きていこうという前向きな姿勢と、どんなに愚かであろうと自分を肯定するという意識は、それまでにあらゆる苦悩や辛酸を経験してきた人にしかおそらく備わらないものなのかもしれません。
先ほどの第2章の入れ物をどうするか問題の解答なのかもしれませんね。
なんの仕事をしていても、楽器を吹く人、芸術等で身を立てている人に共通するのかもしれませんが、ある地点で壁にぶち当たります。
その先にあったのは、また別の荒野かもしれませんが、毅然とできる何かだった記憶があります。もっと堂々としていいという絶対的な肯定感。
もう少したったら、より穏やかな顔で黄昏時の空を見たいものです。
第4章は著者自身の老いの支度。まあ、狂うこともあると思いますので、そこは飛ばします。
第5章は、『ヴィオラ母さん』でおなじみの母リョウコの逝去。入院する寸前まで、大型のゴールデンレトリバーの愛犬を散歩していたとか。
89歳のエネルギー溢れる老女がエネルギー溢れる老犬の散歩をするという、地域の名物的光景になっていたそう。
すごいのは、入院してもお弟子さんを病室に呼び、指導していたとか。
亡くなった時に追悼コンサートとして、お弟子さんたちが集まってオーケストラで演奏されました。プロとして活躍する方から、13歳の中学生まで。
時折みなさんから披露される思い出話が、母リョウコの口調をまねたしぐさがみな同じということを聞き、著者はどこにいても、誰の前でも、ありのままを放出しながら生きてきた人間なんだな、改めて感じます。
寿命を精一杯生きた人間は、老いも堂々としており、死への意識も成熟したものとなるはず。そんな人間の死は、残された人に前向きなパワーとエネルギーを置いてくれます。
与えられた命をどう使い、生きるか。最期の最期まで、ヴィオラ母さんは家族に、読者に生き様を見せてくれたんだなあ、と思いました。
■最後に
著者がコロナ禍や、母リョウコの死を経て感じ得た死生観や老いについてが書かれています。
こうして年を取るということは悪くないと思わせる1冊です。