こんばんわ、トーコです。
今日は、内田樹の『コロナ後の世界』です。
■あらすじ
コロナを受けて、日本人は少しずつ非寛容になり、尖った言葉が飛び交っています。
同時に、相互監視に反知性主義、1984的ディストピアなど、どんどん日本が劣化しているようにも思います。
尖った言葉が行き交う現代日本を憂えて、人に親切にしようとしている著者が、つい尖った言葉を口走っている論集です。
■作品を読んで
Amazonで「コロナ後の世界」と検索したら、何冊かすでにあるようです。って、コロナが騒ぎ出してから2年は経過しましたからね。
スペイン風邪もWikipediaで調べると2年は流行したようなので、それくらいは続くと思います。
著者の名前は、確か高校の先生が「この人のブログがいいよ」と教えてくれたのがきっかけです。
著者自身は、神戸の大学で教授をし、現在は武道館を営んでいたと思います。専門はフランス現代思想ですが、現代日本についてもブログ記事や雑誌等でコラムを発表しています。論客として雑誌で連載もあるようです。
この本を読んでいると、いくつか日本の劣化について読んだ作品を思い出してしまいます。
324.『偉い人ほどすぐ逃げる』著:武田砂鉄 ←政治家の起こす問題について検証すらしないという今の姿を記録した作品。
320.『私たちはなぜこんなに貧しくなったのか』著:荻原博子 ←経済の面から失われた30年を見ていくもの。
どちらの作品も、日本の行く末を見ています。なんか、今回これを読んでさらに補強された感じです。
ちなみに、著者と武田砂鉄さんの対談記事がありますので、良かったらどうぞ。ああ良かった、この2人接点があって。
皆さん、日本の行く末を憂慮しているのですね。そんな人がたくさんいること自体にまず感謝。そして、市井に生きる我々はどう行動すればいいかを考えなければなりませんね。
そんなところで、作品を見ていきましょう。
この作品は、コロナ後の世界を見据えたものを著者なりに提言しています。同時にコロナによって噴出している問題も取り上げています。
のっけのコラムのタイトルが、隣組と攻撃性。
最初の緊急事態宣言の時に外出自粛が求められました。その時に市民による相互監視を憂慮したもの。
なんというか、大切なことなので長々と引用します。
私たちの社会は、「自分がふるう暴力が正当化できると思うと、攻撃性を抑制できない人間」を一定数含んでいる。彼らがそのような人間であるのは、彼らの責任ではない。一種の病気である。
人間は「今なら何をしても処罰されない」という条件を与えられたときにどのようにふるまうかを見れば正味の人間性が知れる。これは私の経験的確信である。
それは、学生運動の時代に、暴力や盗みなどに手を下した学生が、4年生になったら普通のサラリーマンになって、現在は年金受給者になっているであろう人を著者がたくさん見たから。
だから、法律や常識、世間の目によって「何をしても処罰されない」という環境を出現してはならないのです。
市民に相互監視をさせることで、統治コストが減ります。
この先を読み進めて1番驚いたのは、日本が仮に監視社会になる場合は、まさかの隣組による密告システムによってだろう、というもの。
ええー、こんだけテクノロジーが発達しているのに、まさかの太平洋戦争期と全く同じことするんですかー、とツッコめます。
理由は、先ほど言った通り、管理コストが安いこと。コロナアプリ1つとっても、なかなかITに関して日本政府はポンコツでした。
マイナンバーで個人情報を管理しようとしても、もっと簡単であるはずのコロナ接触アプリすら運用ができないというまさかの失態。
なので、日本政府は中国のような中枢的な国民監視システムは作る気はないだろうと。
なんだか、監視社会が来ないという意味ではいいのだが、日本政府がIT技術をうまく活用出来なさそうということはよくわかったのでなんか複雑…。
ジョージ・オーウェルの『1984』を取り上げたときのことです。この作品を再読するとまあびっくり、先見性がありすぎていて、現実との境目ふがわからなくなったとのこと。
『1984』には、「二重思考」という概念が登場します。これは、「本心から信じながらも意図的に嘘をつくこと、都合の悪くなったあらゆる事実を忘却すること、それから再び必要となったときには必要な期間だけそれを忘却の彼方から呼び戻すこと」というらしい。
著者の言い換えによれば、自己都合で「忘却」したり、「想起」したりできる能力のこと。
おーい、安倍さん以降の首相の時代の出来事の中のいくつ思い当たるんだよ、これ。そのたびになっていってましたっけ。
「二重思考」で前後の論理に矛盾が出て、普通は破綻しているのが気持ち悪く、自分の知的能力の欠陥が可視化され恥じ入るものです。
が、政治家の一部は、平然と嘘をつき、記憶を失うことを頻発している。どうやら、彼らは「論理が破綻している」ことを悪いことと思っていない。
ある意味で著者はこう分析します。
前に言ったことを忘れることができる人間には自己矛盾という概念そのものが欠如しているのである。
公人の口からひとたび出た言葉は取り消しが利かないことを古言で「綸言汗の如し」と言う。どうも当今の政治家や官僚の口から出た言葉は出たそばから汗になって蒸発してしまうらしい。
すごい言葉で見事に皮肉っています。初めて聞いた、「綸言汗の如し」。取り消しできないのに、懲りずに言う人たちがたくさんいます。
これに関連するのが、324.『偉い人ほどすぐ逃げる』著:武田砂鉄 です。読んでみてください。のどに小骨が刺さっている感じがあります。
というか、そんな案件が多すぎるわ。大丈夫か、ディストピア状態から脱出できるのか。
しかしまあ、この章の最後ははまさかのこれって…。
この無主権状態から、日本人はどうやって離脱することができるのだろうか。はっきり言って不可能だと私は思っている。なぜなら、今の日本人は国家主権を回復することを夢見てさえいないからである。
詳しいことは省略します。これを読んだ瞬間、これから先日本に居続けることがリスクだ、と思いました。身も蓋もないですわ、これ。
ディストピア状態からどうやって脱出すればいいのやら…。
最後に、反知性主義について書かれたコラムを。というか、コラムという分量を超えてもはや小論なのですがね。
ここで、反知性主義の定義を。
トーコなりの反知性主義とは、決して教育を受けていない人から起こるのではなく、ひたむきな知的情熱が圧倒的に狭くなったときに起こるもの。
著者曰く反知性主義の本質はこうらしいです。
長い時間の流れの中におのれを位置づけるために想像力を行使することへの忌避、同一的なものの反復によって時間の流れそのものを押しとどめようとする努力、それが反知性主義の本質である。
知性が、ここではない別の場所、方法、他なるものに向かうとすれば、反知性主義は逆を行っています。
おいおい、と言いたくもなります。なんてったって、政治家は想像力が欠如して、なんかリフレインかなんかですかというくらい同じようなやらかしをし、それで時を無駄にしたり、将来どうみられるのかなんて気にしていない人多数。
日本の政治家って、いつからこんなに反知性主義者たちであふれかえったのだろう。『「生きている気」がしなくなる国』の冒頭で評価してますけど。
なんだか怖い世の中になってきた気がします。
最後は、敬愛する大瀧詠一、橋本治、加藤典洋、吉本隆明への弔辞が収められています。ここにも大切なことが触れられています。
ホント、奇妙な後味のする作品です。
■最後に
コロナ後の世界というよりは、コロナで蓋をしていた問題への考察と4人の諸先輩への弔辞で構成されています。
弔辞は一見関係がないように見えますが、実は今後の世界を生きる上での考えが示されています。