こんばんわ、トーコです。
今日は、森下典子の『日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』です。
■あらすじ
ひょんなことからお茶を習い始めてずいぶんが経ちました。その間に、就職につまづき、不安に押しつぶされそうになったり、失恋や父の死などの出来事がありました。
お茶の決まりごとの向こうに、何かに気がつくためのヒントがそばにありました。
■作品を読んで
この作品は、ずいぶん前に映画化されて、おそらく樹木希林の遺作だったと思います。
映画を見たのでもう大丈夫と思っていましたが、当ブログでこの作品の感想を検索されていた方がいたので(どうして知っているかは内緒)、見ず知らずのひょっとしたら当ブログを2度と覗かない方のリクエストに応えてみました。
とまあ、トーコの話は置いといて。作品に行きましょう。
おそらくですが、お茶に週に1度通っているという設定は著者をそのまま投影しているのだと思います。
著者は20歳の時から週に1回、作品執筆時点で25年間通い続けています。
最初は従妹のミチコとともに通っていたのですが、いつの間にか1人になり、通っている面々も変わっていきました。
25年も通い続けているって、はた目から見るとすごいことですが、著者にとってのお茶とはこういうことのようです。
世の中には、「すぐにわかるもの」と、「すぐにはわからないもの」の二種類がある。すぐわかるものは、一度通り過ぎればそれでいい。けれど、すぐにわからないものは、フェリーニの『道』のように、何度か行ったり来たりするうちに、後になって少しずつじわじわとわかりだし、『別もの』に変わっていく。そして、わかるたびに、自分が見ていたのは、全体のなかのほんの断片に過ぎなかったことに気づく。
「お茶」って、そういうものなのだ。
トーコも新人育成とかでなるべくですが、「すぐにわかるもの」と「すぐにはわからないもの」をうまく分けながら教えることにしています。
「すぐにわかるもの」ってその瞬間で終わってしまい、身に着けてしまえば当たり前のものにあっという間に変わります。
けど、「すぐにはわからないもの」を知る瞬間って、「あ、こういうことね…、納得だわ」とやっと腑に落ちて理解します。さらに1歩踏み込んで気がつくことも多いです。
そうして、世界が広くて、広大な面の一部しか見てないことに気がついて、さらに知ろう、わかろうとする。
著者の場合は、お茶の世界を通して知ります。というか、20歳くらいで分かることって、少ない気がしますからね。なかなか渋い習い事を選ん出ますから…。
著者がお茶を始めた理由は、母親がお茶を習いなさい、といったこと。いくら大学生活でやりたいことが見つからないとはいえ、日本の稽古なんてかっこ悪い。
しかし、いとこのミチコは違います。やりたい、といったのです。何なら2人で始めたら、という雰囲気で始まりました。
先生は「武田のおばさん」と呼ばれている近所の方で、とてもたたずまいがただ者ではない感じのする方です。
そして、実際に茶の稽古をして著者は知ります。どんな動作もやってことがなく、作法を覚えるのも、飲み込むのも一苦労。
「こんなの簡単に決まっている」と斜に構えていても、結局何をするにも分からない。学校の勉強や知識、常識がまるで通用しない。
自分は何も分からない、ということを知ることからスタートだったのです。
それから来る日も来る日もひたすらお点前を繰り返す稽古が続きます。しかも、頭で覚えるなと言われ、典子は戸惑います。
しかし、ある時無意識に手が勝手に動くようになっていました。先生はその瞬間を知っていたからなのでしょうね、覚えるなといったのは。
11月の立冬の季節が来ると、炉を出します。炉開きはまたの名を「茶人の正月」とも言われます。さらに、夏と冬では使用する道具はもちろん、茶の入れ方も変わります。
なんと、夏のお茶にやっと慣れたところで冬のお茶を覚えなければならなくなりました。一般人は夏と冬の作法が違うんだ…ということに驚きを隠せません。
とまあ、こんな感じで、要所要所でお茶の作法やしきたりが挿入されています。ちょっとしたお茶の入門書としての見方も出来そうです。
そうこうしているうちに、典子とミチコはお茶会に誘われます。そこでは様々な年代の人が、高名な師匠のお茶を見たり、貴重な器などを見ることができる貴重な機会でもありました。
大学生活を満喫している典子とミチコは、その時に会った老婦人が「さっ、もう1席、お勉強してくるわ。お勉強って、本当に楽しいわね。」と言い残す様子を見て不思議に思います。
なんで今更あの年になった人が勉強するの、と2人は疑問に思いますが、先生から見れば2人のそのセリフの方に笑っていました。
そりゃそうですね。学ぶことが多いからです。ましてや、いつまでも正解にたどり着けないものだからこそ、です。
お稽古を始めてから2年が経過します。典子は出版社でアルバイト、ミチコは就職と学生ではなくなり、稽古も新しい人が来ます。
それでもまだ分からないことだらけで、さぼりたくなることもありますが、通っています。
それは、四季折々のお菓子、茶道具、花々、掛け軸など、季節のうつろいが感じられるような先生流の「もてなし」があるからです。
季節を視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚で感じること。想像力で体験すること。心で感じること。稽古と同時にこれらもひたすら体験します。
典子の中で少しずつ変わり始めます。四季の移ろいがわかるようになったからです。
しかし、同時に典子自身もかなり岐路に立たされていました。大学を卒業してから3年が経ち、出版社へ就職するチャンスを待てどもこない日々が続きます。
しかも周りは、「就職」「結婚」「出産」と人生の駒を進めている中で、何一つない典子はもがき苦しんでいました。
そんな時にもお茶はありました。明日就職試験でお茶の稽古を休んだ時も、結局武田先生のところに行きお茶をもらいます。
結婚を取りやめになった時もお茶の稽古に救われていました。明るい方向に向かいながらも、大きな「揺り戻し」がやって来ると信じて。
ちなみに、その頃とは昭和58年の頃なので、恐らく結婚の取りやめの落胆度は今と比較にならないと思います。
30代になると、仕事が急に忙しくなります。稽古場も典子が最古参になっていました。
稽古も一向に上達しないので、13年目にしてやめようと考えていました。けど、お茶事の稽古で典子はご亭主さんに指名されます。
ご亭主を無事に勤め上げ、その次の稽古でいつも通りお茶とお菓子をもらって気がつきます。
いつやめても、かまわない。ただ、おいしいお茶を飲みにここに来る。これまでだって、ずっとそうだった。そのままでいいじゃないか。
先輩ずらする必要もないし、人と比べない。そりゃ、お稽古ですからね。自分のペースでやるのが1番。
33歳になり、1人暮らしを始めます。しばらくして、父がマンションに遊びに行きたいと電話しますが、友達が来ると言って会いませんでした。
どうせまた会えると思っていたら、なんとお稽古の前日に倒れ、帰らぬ人となります。
そこで一期一会の意味を知ります。会いたいときには会わないといけない。だいじな人と共に食べ、共に生き、だんらんをかみしめる。
成長し、いつまでも家族と一緒にいることは出来ないけど、いつでも会えるからまあいいか、と思っているうちに帰らぬ人になることだってある。
そうなる前に会いたいときに会う。ちゃんと過ごすのも必要なことかもしれないですね。
また月日が流れ、新しく魚住さんという40代のキャリアウーマンがお稽古に通うようになります。
彼女が、冬になると気持ちがこもりがちになることを典子に言います。その時に典子はこう思います。
世の中は、前向きで明るいことばかりに価値をおく。けれど、そもそも反対のことがなければ、「明るさ」も存在しない。どちらも存在して初めて、奥行きが生まれるのだ。どちらが悪いというわけではなく、それぞれがよい。人間には、その両方が必要なのだ。
本当に人間ってこうのはずです。明るくないことだって、明るさのためには必要なこと。むしろ、この明るくないことがあるからこそ人は明るいことがよりうれしく感じるはずです。
お稽古を始めてから20年が経過します。ゆっくりですが、自分のペースでお茶を理解してきました。
ミチコと一緒に行ったお茶会の時に「勉強って楽しいわね」といった老婦人の言葉が今になって理解できました。
教えられた答えを出すことでも、優劣を競争することでもなく、自分で一つ一つ気づきながら、答えをつかみとることだ。自分の方法で、あるがままの自分の成長の道を作ることだ。
気づくこと。一生涯、自分の成長に気づき続けること。
「学ぶ」とは、そうやって、自分を育てることなのだ。
こうして改めて読むと、社会人からはどんなこともこの考えが大事なんだな、と思います。
趣味もそうですし、仕事もそう。誰かと競う必要はない。自分と競うという言い方もおかしいですが、きちんと俯瞰すること。これができないと、何をやっても成功はしないでしょうね。
さらに、25年目になるとお茶の先生をやらないか、と武田先生から言われます。典子は「教授者」を目指します。
ここまでが、著者の25年のお茶の稽古の軌跡です。
お茶を通しての発見はこうしてみると新鮮ですし、きっと気がついている人も改めてそうだよね、とうなずけることも多々あるのではないでしょうか。
■最後に
お茶を通して四季の変化、自分自身の内面の変化を丁寧に描いています。発見はありますし、改めて発見することもあります。
お茶について学びたい人もかなりわかりやすく詳細に書かれているので、入門書としても素晴らしいです。
[…] なんだか前回紹介した405.『日日是好日 「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』著:森下典子 でも触れている通り、心で感じること、がここでも重要になりますね。 […]