こんばんわ、トーコです。
今日は、俵万智の『牧水の恋』です。
■あらすじ
若かりし頃の若山牧水は、恋人小枝子に恋をしていた。それも、身も心も激しく。それが当時詠んだ歌に示されています。
恋はいつはじまり、いつ終わるのか。若山牧水の恋を見ていきます。
■作品を読んで
俵万智と言えば、言わずもがな超有名歌人です。
287.『あの人と短歌』著:穂村弘 でもインタビュー相手に登場しますが、この方は短歌にかなりの革命をもたらした人でもあります。
なお、興味があれば読んでいただければと思います。
それでは、本編に行きましょう。
まずは、若山牧水と小枝子との出会いから。
友人の日高が赤坂家の長女と恋に落ちてしまうも、赤坂家の母親の反対で付き合えないと牧水にこぼします。
血気盛んな牧水は、友人の応援のため神戸の赤坂家に乗り込み、友人の恋を助けます。その家には、赤坂家の親戚筋の小枝子が広島から療養に来ていました。そこで、初めて2人は出会ったとされます。
小枝子はかなりの美人のようです。確かに、写真が巻末に添付されているのですが、現代から見てもまあ可愛らしいこと、という感じの印象を受けます。
牧水と出会った後、小枝子は従妹の赤坂庸三の下宿に身を寄せました。なんと東京に出てきたのです。すごい行動力…。
さらに、小枝子は自分から牧水のもとを訪ねます。さすがの牧水も友人の手紙の中に面食らったということを記載しています。
小枝子は、明治40年当時にしてはなかなかに積極的な女性でもありました。
それから2人で武蔵野の森をあるった後、牧水は暑中休暇で東京を離れます。3か月後に再会します。
このころの2人はまだ恋人同士とは言えない状態でした。しかし、牧水は小枝子との出会いによって、いくつもの素晴らしい短歌をつくってはいます。
で、このころの牧水を俵さんはこう分析しています。
恋の予感、高ぶる思い、会えた喜び、会えぬ寂しさ。それぞれの場面に、辛さはもちろんあっただろうが、それは故あっての辛さである。が、今牧水が対峙している辛さは、意味不明の、あまりに理不尽な、蛇の生殺しのような辛さだ。なのに「悲しきうたをみせよ」などと言われたら、もう歌人として死にたくなるというものだ。
恋が始まり、あと1歩という辛さがつらつらと短歌で表現されているという、生殺しの状態です。最後の一線を越えられないというやつですね。
現代からすれば、「はい、リア充いいですね。それ以上って何贅沢言っちゃってんのよ。」くらいの感覚なんですが。
とこのように、この作品は牧水の短歌や文献から、牧水の状態をこのように分析しています。なんというか、恋を再現しているかのようです。
牧水からすれば、余計なお世話かもしれませんが。
さらに、ここからしばらくの牧水は、もがき苦しみ、なかば意味不明の悲しみの歌を量産しまくっています。
明治41年の正月にやっと泊りがけの旅行に出ることができました。この時に書いたと思われる歌が、この旅行の時の牧水の胸の内を包み隠さず明かしています。ここまで来ると、もはや引くのですが…。
ちなみに、この部分で登場する短歌の分析が流石です、というものになっています。これを読んだら他の短歌も読みたくなります。
山を見よ山には日照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君
素晴らしく壮大な口づけの歌である。山を見て、海を見て、そしてお互いの目と目、唇と唇を合わす…。天上で豪快に鐘が鳴り響いているような、シェークスピアの舞台俳優になったような、ちょっと日本人離れしたスケールの大きさとストレートな表現。
高校生のときにこの歌を読んだ私は、ドキドキしたし、やや気恥ずかしくもなった。そして「海はわかるけど、山は単なる言葉の上での対比のためとちゃうんか」と、リアルさに疑念を抱いた。
高校生なら確かに、動揺すると思います。刺激が強いでしょ。30超えればなんも動揺しませんけど。
それにしても、本当に日本人離れしたスケールのでかさとドストレートな表現ですね…。さらに言えば、同時にこの手の歌を4首雑誌に掲載されています。雑誌もある意味すげーよ。
著者が高校生の時の疑問は、この作品を執筆中に解決したそうです。気になる方はぜひこの作品をお読みください。
この旅行中に牧水と小枝子は無事に結ばれます。牧水の年賀状に「キンガシンネン!」と喜びいっぱいに記しているくらいですから。
この旅には、小枝子の従妹の庸三も一緒にいました。当然牧水の目には小枝子しかいないような歌ばかりですが、庸三がなぜいるのかは全く釈然としません。
この謎は先を読み進めれば明らかになります。4首の口づけの歌を雑誌に掲載した次の月には、なにやら不穏な雰囲気の短歌が並びます。
実は小枝子は人妻で、2人の子の子持ちママだったのです。牧水はそのあたりの事情を全く知らないで恋に落ちたわけですが、とんでもないことには変わりありません。とはいえ、牧水もどこか訳アリな感じがしないでもないとは思っていたと思いますが。
同時に、小枝子と同居している従妹の庸三も怪しいと踏み、小枝子のもとに泊まるようになります。
庸三が泊まり旅行に同行したのは姦通罪を恐れた小枝子の保身が主たる理由だったのです。なんつー、理由。
ここまでで半分です。ここからは、牧水と小枝子が全く結ばれない恋だったという結末に徐々に近づいていきます。
牧水は大学を卒業するも、定職に就かず、相変わらず短歌を詠んでいました。短歌上では小枝子は妻になっています。
2人が泊りがけの旅行から1年が経過し、牧水は小枝子と住む新居を構えるも、結局親友の新婚の家となってしまいます。
なぜか。牧水と小枝子の恋愛は行き詰ったからです。牧水はそんな現実から雲隠れするように旅に出かけ、大酒を飲みます。
さらに、小枝子は妊娠し、出産します。このスーパー非常時に牧水はおらず、そこにいたのは従妹の庸三でした。庸三は、学校をやめ、職に就き、預け先を探し、養育費を負担します。
のちに、文学者の方が調べたところ、小枝子の戸籍上は庸三の妻ということになっていました。
これは著者の推測ですが、小枝子の夫の園田との離婚交渉でも牧水よりは庸三の方が有利であったこと、何より小枝子の気持ちが庸三に傾いていたことが大きかったのでしょう。
のちの牧水の妻である喜志子は、幼いころから文学少女で、牧水と出会う前に歌人としての名声を持っていました。彼女と小枝子の違いは、牧水を歌人として支えたか否かです。
結婚は生活するということを知っていた小枝子と、恋愛の延長に結婚があると思い込んでいた牧水。
小枝子と別れた後の牧水は、失恋を恋愛と酒で埋めるような生活になり、もうヤバいというところで喜志子と結婚します。
2人の間に生まれた子どもたちがその様子を描いています。ですが、牧水から小枝子が生涯にわたって消えることはありませんでした。
しかし、晩年に近づくにつれ、かなりのアルコール依存症を発揮します。飲んでいる量がおかしいです。しかも、死んだら腐敗するはずなのに、アルコールがしみわたっているおかげで死後2日経っても腐敗しなかったとか。
なんだか、ヤバいエピソードまでくっついちゃってます。
■最後に
牧水の恋が、彼の短歌を紐解いていくことで、情緒深く再現されています。
とはいえ、牧水という人についてかなり突っ込みどころ満載な人だということもわかります。