こんばんわ、トーコです。
今日は、井上ユリの『姉・米原万里』です。
■あらすじ
米原万里という伝説のロシア語通訳をご存知でしょうか。
子供のころは母曰く「トットちゃんより変わっていた」らしい。
そんな米原万里を3歳下の妹目線で描いた作品です。
■作品を読んで
文庫本のカバーを見て思ったのですが、一体いつの写真なんでしょうか。
相当お若い時の写真な気がします。なんか、もっと強烈な印象のある人だったような気がします。
1959年から5年間、米原一家はプラハに住んでいました。
当時プラハに住むということは恐ろしく大変なことだったようです。
父親の社会主義雑誌の編集のためプラハに行くことになったそうだが、前任者はレッドパージの影響か羽田空港で逮捕されていました。
そのため、大使館には科学アカデミーの研究員ということでプラハに行き、共産党の仕事では「大山」姓を名乗っていたとか。
何というか、時代を感じますし、東京オリンピック前はプラハに行くことがこんなにも危険だとは思わないでしょう。
以前紹介した中村紘子のエッセイ(ピアニストだって冒険する)に旧ソ連時代のホテル事情が書かれていますが、実際に住んでいた人の話は貴重です。
ただ、実際に小学生として過ごすにはロシア語が全くしゃべれなかっただけ以外は、宿題や遊んだりするのは一緒のようですね。
ちなみに姉妹の通っていたソビエト学校は平日は山のように宿題を出しますが、週末や休日は宿題を出さないきまりだったそうです。
これを書いている2020年3月は新型コロナ騒ぎで学校が休校になっていますが、ドリルは売れる、ネット配信の小中学生向けの授業動画がタダになっているとか。
日本の子供って、意外と大変かもね。宿題が長期に休みに普通に出てくるし。
一家は東京オリンピック直後の1964年11月に帰国し、東京で暮らし始めます。
白いご飯が食べられる、味噌汁が食べられる。だけど、パンとソーセージがない。
チェコで食べていたパンは黒パンで、ライ麦でできた硬いパンです。
日本のパンはご飯と同じく「もっちり」「ふんわり」とした食感のものが多く、ましてや1964年当時なかなかドイツパン系のものが売られていなかったので、さぞかし大変だったと思います。
ソーセージも然りです。何というか、日本で売っているソーセージ、ウインナーって個人的には好きではないです。合成着色料や肉の味がしないし、変な固まりに当たることもある。
本場にいた人ならこの日本で売られているソーセージに違和感持つでしょうね。
しばらく探したのち無事に見つかったようで、何よりです。
ただ、姉妹がともに鎌倉に住むようになったそうですが、家あるライ麦パンとソーセージは姉妹そろって同じものを選んでいたそうです。
育った味覚や恋しい食べ物って一緒なんでしょうね。記憶に刻まれている食べもの。
というか、普通の日本人ライ麦パン常備しません。
このエピソードが1番印象に残っています。
他にも妹から見た姉米原万里の姿をなつかしくも冷静に振り返っています。
さすがは妹といったところでしょうか。
■最後に
この作品はそもそも食べものを通した姉米原万里の姿をということで書かれたエッセイです。
ある種の天才だった姉を見守る妹。没後何年たっても米原万里は生きているような気がします。
ちなみに、米原万里の作品は取り上げています。良かったらどうぞ。
[…] さらに、妹さんから見た姉の姿ということで、こちらの本もあります。219.『姉・米原万里』 […]