こんばんは、トーコです。
今日は、沢木耕太郎の『危機の宰相』です。
■あらすじ
1960年、池田勇人は首相になりました。その際に、次の時代のテーマを「所得倍増」としました。
この実現のためには、池田のほかに、田村敏雄と下村治という男たちがいました。
一体どんなドラマが展開されるのやら…。
■作品を読んで
『深夜特急』や旅のエッセイでおなじみの著者ですが、ルポライターとしての顔が本業です。
この作品は、『深夜特急』の旅が終わり、ちょうど仕事の空きがあるときに取材が始まりました。
1977年に1度雑誌に原稿用紙50枚バージョンとして掲載されるも、完成までに約27年かかりました。
驚きのスピードですが、そこについてはあとがきでこう語っています。
本来なら、すぐにも単行本化すべきだったかもしれない。しかし、そのときの私には、眼の前に『テロルの決算』の全体がぼんやりとだが見えかかっていた。すでに書いてしまったものを整理するより、未知のものにぶつかっていくことの方がはるかにスリリングだった。
(中略)
私には、何年、何十年と抱え込んで、ようやく刊行にこぎつけたという作品が少なくない。しかし、そんな私にもこれほど時間がかかったものはなかった。「文藝春秋」に発表したものを第一稿とすれば、それから「沢木耕太郎ノンフィクション」版の決定稿を書き上げるまでに二十七年が過ぎたことになる。さすがの私も茫然としてしまう。
ちなみに、27年間の間に、この作品の登場人物の下村治の遺族からは「出版してほしい」と手紙があったそうです。なんと故人もそう望んでいたのだとか。
しかし、27年後の世界である2004年は、所得倍増なんてとんでもなく、就職氷河期世代が大量発生し、非正規労働者が増えつつある時代でもありました。
本の舞台の時代とは真逆ですね。恐ろしい時に発掘されました…。
それでは、作品に行きましょう。
この作品は、1976年から77年にかけて、政治家、経済学者、官僚、経済人、ジャーナリストに取材を重ね、まとめられています。
1960年の総裁選で、池田は「所得倍増」というスローガンを引っさげて立候補します。相手は、石井光次郎と藤山愛一郎です。
石井光次郎はシャンソン歌手石井好子の父親です。以前にも紹介はしています。346.『いつも夢をみていた』
「所得倍増」というスローガンは、経済成長路線まっしぐらの日本で、とても時代に合致したキャッチコピーですし、歴史の教科書に載ってしまうほどの優れているキャッチコピーです。
実際、2023年5月現在、現在の首相が「令和版所得倍増」と言い始めたには吹きましたが。
このスローガンは一体だれが考えたのでしょう?池田勇人ではなく、経済のブレーン下村治かと思いきや、著者のインタビューで下村治は否定します、自分ではないと。
では、一体だれかと言えば、宏池会の事務局長田村敏雄と著者は考えています。
この田村敏雄という人物について触れられている著作はないので、池田勇人、下村治、田村敏雄について書いてみようと思ったそうです。
ここからは、3人について紐解いていきます。まず、この3人は「敗者」でもあります。え、どういうこと…?と思うでしょう。
池田勇人は、大蔵省に入省します。
大蔵省の出世ルートというのは決まっています。旧制一高から東京帝国大学、高等文官試験を上位成績でパスするのが通常ルートですが、池田勇人は旧制五高から京都帝国大学からというルートのため、一気に傍流に入ります。
さらに、入省してから4年後、宇都宮税務署長の時に「落葉性天疱瘡」という病気で5年間闘病します。
しかも、闘病生活中に妻の直子を失います。彼女は、伯爵家の令嬢で、宮澤喜一の父親の裕の仲介で結婚しています。看病がしんどかったのでしょう。
5年も休職ののち、無事に大蔵省に復職することができました。そして、復職前と同様税務畑を歩みます。
戦後かなりラッキーだったのは、並み居る大蔵省の秀才たちが公職追放の憂き目に遭い、池田は奇跡的にそのままの地位に居続けることができました、その後、事務次官に上り詰め、政界に転身します。
田村敏雄は、池田勇人と同じ期の大蔵省入省組でした。この人も東京帝国大学出身ですが、旧制一高出身ではなかったため、池田勇人と同じく傍流に流されます。
ただ、違うのは田村は満州に行き、官吏として働きます。さらに、終戦直後にソ連軍に捕まり、シベリアに抑留ののち1950年に帰国します。
おまけに美しく才媛の妻をシベリア抑留中に亡くし、戦争中に執筆した作品により公職追放の憂き目に遭います。そんな時に知り合いから、同期の池田勇人が大蔵相をしているので、会いに行けと言われ、嘆願します。
その後池田の口添えで大蔵省の外郭団体に入るも、池田を支えるための宏池会を結成し、事務局長になります。
下村治も結核という、当時No.1の死の病に苦しめられています。大学は東京帝国大学で経済を学び、早くに官吏登用試験に受かるも、結核のために卒業が1年遅れます。
それから、激務とどこかで行政官という職務がしっくりこなかったのか、病気で倒れます。病気療養から明けて帰ってきたのは、1945年8月15日。
再び復職し、破局的なインフレを抑えるための研究、立案に従事します。が、またも体を壊します。
1953年からは日本銀行政策委員に任命されます。そこでも卓越した理論を展開し、まさに預言者の異名を取っていました。
統計資料を読む機会に恵まれていたので、それをもとに日本は今後よくなるだろうと信じていました。1958年頃から日本は高度経済成長に突入するとわかっていたようです。
この3人がパズルのピースのように会ってしまったら…。それは歴史が見事に証明していますが、続きは本書でお楽しみください。
なお、下村治は著者のインタビューにこういいます。これは1976年に語ったことです。
日本経済は高度成長からゼロ成長に押し出されてしまったのです。それに適応しなくてはならなくなってしまった。しかし、ゼロ成長だからといって悲観ばかりしている必要はありません。経済がゼロ成長に適応してしまえば、不況もなにもない静かな状態が生まれてくることになる。ところが、いまは高度成長に身構えていたものをゼロ成長に対応できるように変えなければならない。そこに混乱が起きる原因があるんです。ゼロ成長を生きるためには、これまで高度成長に備えていたものを切り捨てなくてはなりません。
もうすでにわかっていたことだったのです。27年の封印が解かれたとき、この言葉を読んで驚いた方も多かったのではないでしょうか。
なんだか、優れた理論を提唱する経済学者とそれを理解してちゃんと実行する政治家の両方が必要なんだな、と思います。
■最後に
「所得倍増」というたぐいまれなキャッチコピーが生まれた背景と、それらを生み、実行した男たちの軌跡がたどられています。
歴史ベースのルポルタージュはこの作品以外ではほぼありませんが、それも1つの魅力です。
歴史って、繰り返すんだなあ、ということがわかります。