こんばんわ、トーコです。
今日は、カーソン・マッカラーズの『結婚式のメンバー』です。
■あらすじ
12歳のフランキーは、兄の結婚式に行けば人生が変わると信じていました。
南部の町に住む少女が、いつもの退屈とした日常を抜け出すべく、様々な行動に打って出ます。
村上春樹の新訳で楽しめます。
■作品を読んで
ちょうどつい最近、村上春樹と柴田元幸の『本当の翻訳の話をしよう』を読んでいました。そこで、刊行当時村上春樹がこの作品を翻訳中であることを明かしています。
対談が行われた当時マッカラーズ作品はすべて絶版になっており、この作品は村上春樹による完全な新訳でした。
村上春樹がぜひ読んで欲しいという思いが詰まった、発掘された作品です。
この作品は、村上柴田翻訳堂の第1作目です。このシリーズ、翻訳だけでなく、2人が読んできた海外文学も網羅していたりします。
そんなこんなの情報でした。それでは作品に行きましょう。
この作品は、南部の田舎町に住む12歳の少女フランキーが、平凡で死ぬほど退屈な日常の中で、兄の結婚式で人生が変わることを夢見ていました。
まあ、12歳って退屈なんですよね。特に田舎にいるとなおのこと。今ほど情報化社会ではなかった20年前でもトーコは同じことを思った記憶があります。
テレビに映る東京がきらきらしていて、まぶしくて。そこに住む人たちはきっと退屈していないんだろうなあ、と思うくらい。
なんかそんなことを思っていたことを思い出したせいか、フランキーの気持ちが分からんでもないです。
父親と従弟、料理人のベレニスに囲まれながらも、日常に飽き、奇矯な行動に出ます。こんな思いからです。
彼女が怖かったのは、戦争の中に自分が含まれていないことであり、世界がどうやら自分から切り離されているように見えることだった。
だから、彼女はこの街を出て、どこか遠いところに行かなくてはと思った。その年の春の終わりは気怠く、またあまりに甘美だった。
ものすごい焦りですね。この作品は1946年に出版されていること、戦争の国や地域がフランス、ドイツ、ロシア、サイパンと出てきているので、フランキーが過ごしている時代は第2次世界大戦の頃かと思います。
世の中は自分の知らない遠くの世界でいろいろと動いていること。それに対して自分は当事者ではなく、何もできずに怯え、無力感にさいなまれている描写が、この引用以降1ページ以上続きます。
おそらく、村上春樹がマッカラーズを訳したい、と思ったのはこの描写もあるんだろうなあ、と思いました。
この少女期の特有の焦りを見事に表現してるなあ、とトーコも思います。味わったことのある人は本当にフランキーの焦りが分かります。
フランキーは退屈な日常から抜け出すために、父親のピストルを持って街を歩き、撃ってみたり(それってほとんど犯罪者やん…)、友達相手にいかがわしいことをします。
その一方で、兄の結婚式に行き、兄夫婦についていくことでこの街から逃れることを夢見ます。
読み手からすれば、新婚早々の夫婦が何が悲しくて第3者と旅するんじゃ、と思うでしょうが、12歳のフランキーはかなり本気で夢見ます。
第2部になり、心機一転なのでしょうかフランキーはF・ジャスミンに変わります。ふー、これをやってしまうから翻訳文学は読みずらい…。
結婚式に向かう前日の話です。
F・ジャスミンはいろいろと気分が高揚しています。やっとこの街を抜け出せる、という淡い希望を胸に…。それが結構長く書かれています。
その中で、料理人のベレニスがF・ジャスミンに言う言葉が印象的です。
あたしたちはみんな、多かれ少なかれ閉じ込められているんだ。あたしたちはそれぞれいろんな具合に生まれてくるんだが、それがどうしてなのか分からない。でもいずれにせよ、あたしたちは閉じ込められている。
何というか、味わいたくない閉塞感ですよね。まあ、大なり小なり人は持っているのでしょうが。
ベレニスの恋人のハニーは麻薬中毒者で、
何となくこれが印象に残っています。それは、この閉じ込められているという感覚がF・ジャスミンにとってはきっと許せないものなのでしょうから。
第3部に入り、ついに結婚式当日がやってきます。しかし、フランセス(第3部はフランス、フランキーが戻ってきました)は、兄夫婦と共に旅に出ることなく、田舎町に戻ってきます。
家出をしようと試みるも、町で1番怪しいバーの「ブルームーン」にいるところを警察に見つかり、家に連れ戻されます。
さらに、12歳から13歳になり、フランセスと父親は引っ越しをします。
また、従弟のジョン・ヘンリーは髄膜炎で亡くなります。あらら、親しい人までなくなった。
ベレニスもフランセスの家の料理人を辞めるつもりです。しかも、恋人は裁判沙汰になってしまいます。兄もルクセンブルクにいるようです。
これがフランセスの12,3歳の時期です。こうして、物語は幕を閉じます。
最後に、翻訳した村上春樹はこういいます。
そこにあるのは「とても少女の感情の微妙なひだをとらえている」というような単なる「文芸的な」うまさではない。それはなんだかとんでもないところから、なんだかとんでもないものが飛んでくるような、ちょっと常軌を逸したところのある、特別な種類の鮮やかさなのだ。普通の作家にはこんなスリリングな文章はまず書けない。その文章はあるときには鋭い剃刀のように皮膚を裂き、あるときには重い鉈のように心をえぐる。
その結果、我々読者はこの小説を読みながら、普通の生活の中ではまず感じることのできない、特別な種類の記憶に巡り会い、特別な種類の感情にリアルタイムに揺さぶれることになる。
この続きは結構あるのではしょりますが、少年少女も何らかの形で「気の触れた夏」をくぐり抜けます。それは、人生において必要な時間であると。
だから、トーコのようにこの小説を読みながら、懐かしいけど、妙に揺さぶられるんだなあと思いました。
■最後に
究極にエバーグリーンな小説です。
途中一人称が変わってしまい外文特有の読みにくさがありますが、1人の少女の退屈な日常から抜けだしたい思いがひしひしと伝わってきます。
それは、かつてどこかで私たちも体験したことのある想い、あるいは痛みなのかもしれません。