こんばんわ、トーコです。
今日は、斎藤明美の『高峰秀子の捨てられない荷物』です。
■あらすじ
高峰秀子のことを「かあちゃん」と呼び、慕っているうちに松山善三、高峰秀子の養女になった著者から見た、高峰秀子の姿が書かれています。
高峰秀子の生き方が垣間見えます。
■作品を読んで
高峰秀子は、5歳で女優デビューし、55歳の時に女優を引退してからはエッセイストとして活躍しました。
当ブログにもこれまでに紹介したエッセイがありますので、最後に案内します。
5歳から働いているとはねえ、すげー。
実母は幼き日に亡くなり、継母に引き取られますが、この方との闘いはマジですごいです。今でいうところのステージママから、毒親へ変貌します。
というか、10代の時点で親戚たちの生活費も稼がなくてはいけない状況になっていたのでした。すごいですね、継母から見れば金を稼いで当然という話。
高峰秀子は1度も継母から「仕事辞めてもいいよ」といった言葉を言われたことがなく、金の無心に事欠くことなく、まともな家庭状況ではありませんでした。
まず冒頭で、著者と高峰秀子の出会いから、交流を描いています。大女優としての顔というよりも、旧知の監督からオファーしてもみんなに断られたので、どうか映画に出てほしいと言われます。
55歳の時に映画女優を引退し、文筆家として活躍の場を広げていく頃に著者と出会ったようです。
著者は当時、著者の母親の容体が思わしくなく、お見舞いに行ったり、看病に戻ったりと仕事どころではありませんでした。
ちょうどそのころ著者は、高峰秀子はエッセイの執筆を引き受け、担当の編集者になりました。松山善三・高峰秀子の養女になる前の話です。
すごいエピソードだな、と思ったのが、著者が仕事を1か月休んで母親の看病のため帰郷していた時、高峰秀子から電話がかかってきて、
「住所を言いなさいッ。食べるもの送るから。どこッ?今、メモするんだから、言って」
高峰は怒るように言った。
すごい勢いだなあ、と思いました。本当の親のようです。もともと東京にいたときも勝手に高峰から食べ物が送られてきていたのだとか。めっちゃおいしいものを送られてきてたようです。
そう、なぜか高峰秀子から本当の娘のように世話をかけられ、著者も高峰秀子と自然に接していくようになっていきます。
ここで、高峰秀子は著者が母親を大切にしている様子を見て、こういいます。
私はあなたが羨ましい。私には、そんな母はいません。養母を『いなくなればいい』と思ったことはあっても、『長生きしてほしい』と思ったことは一度もありません。長生きしてほしいと思えるお母さんを持っているあなたが羨ましいです
高峰秀子の生い立ちは『わたしの渡世日記』で詳細に触れられているし、冒頭でも言いましたが、高峰は本当の意味で母親の愛情というものを知らずに大人になっていました。
おそらく、松山善三と結婚してから少しずつ感じ入っていったのだと思います。小学校に行けなかったと言ってますが、撮影現場や交流のあった人は超一流人です。普通の人よりも鋭い感性や賢さはあったはずです。
高峰からすれば母親はいなくなってほしいもの。『長生きしてほしい』と本心から1度も思わず、継母が亡くなった時、高峰の周囲の人はむしろ喜んでくれたとか。
そんな継母から得られることのなかった母親の愛情を、著者に惜しみなく注いだのでした。なんか、いろいろなことを乗り越えたからできるんだなあ、と思います。
著者は以後、高峰秀子をかあちゃん、松山善三をとうちゃんと呼び慕います。
ここからは、高峰秀子自身のエッセイでは全く描かれることがなかった、継母志げ(デブ)の介護から死までを、高峰秀子本人から聞いたことをもとに再編集しています。現実はなかなかにもめて大変だったようですが。
著者と松山善三・高峰秀子夫妻とは、まるで実の親のような交流が続きます。時にはこんな?咤激励も。
人を見たら、敵だと思いなさい!
世間とはそういうものです。卑怯かもしれないけど、人には距離を置いた方がいいの。アンタはバカ正直だから、いつも思ったことを口にするけど、正直ならいいってものじゃないのよ。足を掬われます。言葉と心の内が違う人間なんてザラだよ。むしろ、そういう人間ばっかりだと思ったほうがいい。
…。かあちゃんなんか事実も何もないことを、どれだけ言われ書かれてきたか。かあちゃんがされてきた意地悪なんか、そんなもんじゃなかったんだよ。
そんな弱いことでどうするのッ。生きていかれないよ。
著者が周囲から母親が亡くなって心無いこと言われ、傷ついたときのこと。高峰からの言葉は、生き馬の目を抜く世界で生きてきた人だなあ、というセリフが満載です。
長年芸能の世界で生きていた人の言葉は重みが違い過ぎるなあ、と思います。人との距離の取り方がなんとなくわかります。
そして、高峰秀子は無類の読書好きでもありました。それは、12歳の時に下宿屋をやっていたときの大学生川島青年。
撮影の始まりが遅かった日のこと、川島青年が高峰を本屋に連れていきます。本屋を今まで避けていたのですが、気軽に入れる場所で、しかも本が買えることを知ります。
その日を境に読書好き、書店好きになりました。ちゃんと自分で本を書店に行って買ってたようです。
読んでいたのは撮影の合間で、その頃は休憩は小一時間なので、短編を読んでいたようですが。執筆当時は長編も読んでいたと思いますが。
やっぱり、読書は誰かを救っていたのですね。いいもんだわ。
大女優だったころをそんなに知らない著者が、担当編集者として高峰秀子との交流から、松山善三とも親しくなり、やがて家族のように少しずつ距離が近くなっていき、最後はこの半自叙伝ができました。
そんな、大女優の自伝『わたしの渡世日記』のその後です。
■最後に
自叙伝『わたしの渡世日記』のちょっとした続編かもしれません。とはいえ、筆者が厳密にはインタビューしたものを再構築しています。
ひょんなことから普通の編集者が、映画監督、女優の夫婦と交流を持ち、やがて本当の家族のような交流が生まれます。
一方で、心を許した人だからこそ、辛かった時の話や同じ出来事が、『わたしの渡世日記』は違う視点で描いています。それも面白いです。
■関連記事
以下は、これまでに紹介した高峰秀子の作品です。
145.『わたしの渡世日記』、180『巴里ひとりある記』、214.『にんげんのおへそ』