こんばんは、トーコです。
今日は、高峰秀子の『わたしの渡世日記』です。
■あらすじ
戦前から天才子役として活躍し、戦中、戦後にかけて当時を代表する監督たちの映画に主演し、当時の映画史を彩った高峰秀子という女優をご存知でしょうか。
しかし、女優としてのキャリアは華々しいですが、実生活はかなり恵まれていないことと、文筆家としての才能がすごくあったことはあまり知られていないかもしれません。
■作品を読んで
高峰作品は様々な出版社から文庫本が出ています。トーコの持っているバージョンは新潮文庫なので、表紙は著者の写真です。
文春文庫バージョンだと梅ゴジ画伯の肖像画です。
出版された当時はあまりの文章のうまさに、「本当に高峰秀子が書いたのか、ゴーストライターが書いたのでは」との疑惑がもたれたそうです。
ゴーストライターなら、これ1作で終わります。新聞連載で、分量は文庫本で2冊です。
著者はこの後も自分の生活について書いたエッセイや、インタビューについての本を執筆します。いずれもかなりの名文です。
しかも、高峰秀子って5歳のころから子役として映画に出て給料をもらっていたので、学校に行く時間はなかったそうです。
文字の読み書きは台本で覚えたそうで、辞書という存在を知ったのは夫松山善三と結婚した後だったとか。
それでも、ここまで書けるのはすごいですよ、マジで。
この本の凄いところは、高峰秀子の30歳までの半生を描いただけでなく、日本の映画史もそれとなく描いています。
自分の人生をと映画の歴史はほぼラップしますからね。映画抜きにおそらく不可能でしょう。
映画がまだトーキーだったころに活弁士というセリフを言う人がいて、ちゃんとフィルムに声を記録できるようになってからは、美人でも訛りの酷い女優さんは失業してしまったとかのエピソードが綴られています。
それにしても、著者の結婚するまでのキャリアはとんでもないです。
5歳で子役デビュー、多忙すぎて学校へ行く暇なし、深夜の撮影もタヌキ寝を覚えてなんとか乗り切ったとか。
さらに、実親ら家族が9歳だか10歳の子供の収入を頼って上京するわ、養母との確執はすごいわと肉親との諍いは絶えなかったそうです。
ただ、仕事に恵まれ、当時の一流の監督や女優、作曲家などの芸術家といった様々な人々からはものすごく愛されていた人でした。
仕事に恵まれていたということは、かなりのプロです。本人はやめたい的なことを書いていますが。一流に気に入られるってすごいことだと思います。それだけ平凡ではないからです。
特に谷崎潤一郎や梅原龍三郎との交流はあまりにも有名な話。梅原に至っては著者の肖像画まで書いたのですから。
ちなみにですが、その肖像画は確か美術館に寄付されています。そのエピソードもこの作品かほかの作品に書かれています。
著者の凄いところは5歳から撮影現場にいて、様々な人間を見続けたからでしょうか。人間を見る目が確かなところです。そして様々な人との交流を通して成長しようとしていたのでしょう。
だから、これだけの描写ができるのです。情景が浮かんできますし、読んでて飽きない。
また、著者はこうも言ってます。役を演じるということは、他人の人生を演じること。
演技に先立つものは常に真実である。人の痛さを知る心だろう、と述べていますが、俳優だけではない、これからの時代1番必要な能力になります。
著者としては、そんなつもりは全くなかったことでしょうに。
ひとりぼっちの渡世は、松山善三との結婚で幕を閉じます。
結婚から30年たつと中古をはるかに超えてポンコツ寸前になったとユーモアいっぱいに描いていますが。
■最後に
高峰秀子という大女優の結婚するまでの半生が綴られています。
肉親との確執に苦しみつつも、人間を常に見続けていた人でもあります。
そのまなざしが、作品の随所に現れています。文筆家としての才能にも恵まれていた方でもあります。
[…] 145.『わたしの渡世日記』、180.『巴里ひとりある記』、214.『にんげんのおへそ』 […]
[…] 高峰秀子の生い立ちは『わたしの渡世日記』で詳細に触れられているし、冒頭でも言いましたが、高峰は本当の意味で母親の愛情というものを知らずに大人になっていました。 […]