こんばんわ、トーコです。
今日は、田村景子編著の『文豪たちの住宅事情』です。
■あらすじ
文豪たちは一体どんな家に住んで、作品を生み出してきたのだろう。
住んだ家、住んだ土地から見えてくるのは文豪の人生と彼らの文学な気がします。
■作品を読んで
この作品、思った以上に厚みがあります。初めて手に取った時に思った感想なんで。
それもそのはずです。主要な文豪の住宅事情をこれでもか、というくらい入れ込んでいます。
1番引っ越し回数が多い人で、30回以上です。中原中也です。
30歳で亡くなっているので、ほぼ腰を落ち着けた場所はない計算になります。30回って、年1で引っ越ししてる…。
なんでも、学校に入学するたびに引っ越ししているので、そりゃ増えます。
しかも、学校も立命館中学、早稲田受験失敗ののち日本大学予科文科入学のち退学、東京外語学校の入学資格を得るために中央大学予科に入学し、その後無事東京外国語学校入学なので、この時点で5回は最低でも引っ越しは必要なのです。
が、立命館中学つまり京都にいる間だけで推定6回の引っ越しが記載されています。何がびっくりって、15歳で一人暮らしを始めて、次の年から女と同棲してるのですから、どんな16歳だよ、と突っ込みます。
とはいえ、実家がかなり裕福なので、仕送り額はたんまりもらっています。仕送り額は、当時の公務員の初任給と同じ額です。
いかに恵まれている環境かが分かります。なんも生産してないのにすげー。
東京に移ってからの引っ越し遍歴は凄まじいです。結構続きます。結婚し、長男が誕生し、やがて長男と死に別れます。
そこでかなりの精神的なショックを受けたのか、精神に変調をきたし、最後は長男との思い出の多い東京にはいられず、鎌倉に転居し、病死します。
人の命だけは思うようになりません。こればかりは金では解決出来ません。ついに悟ったのでしょうか、中也さん。
というか、創作活動についてなんも語ってませんけど。中原中也は死後有名になるので、ってゴッホか。
与謝野晶子も住宅事情をたどりながら見ると、結構すごいです。
まず、与謝野晶子はほぼ家出状態で寛(鉄幹)のもとに身を寄せます。当時の寛の家は渋谷の道玄坂です。
1900年頃の渋谷は駅こそありますが、今を生きる我々はほぼ信じられないのですが、田畑が広がり、民家が少なく、夜は提灯を持って歩かないといけない状況のようでした。
それから渋谷の割と近い位置での引っ越しを行います。また、同時に第一歌集『みだれ髪』を出します。
そのころには正式に結婚します。何がびっくりって、駅から200m離れた小高い丘の家の裏手はそば畑で、宮益坂や青山が見えるのですから、いかに当時の渋谷に家や高い建物がないことか。
そのころ、貧しい暮らしをしている様子を見た出版社の人が信濃町の住居を提供しました。
それは4間で8円(当時の貨幣価値です)の家ですが、この時点で子供は4人いますし、さらに女中までいるので、生活費は馬鹿にならない状況です。晶子の歌集の売上によって支えられていたといっても過言ではないです。
しかし、『明星』を支えていた詩人がごっそり抜けたことをきっかけに雑誌『明星』が廃刊になり、失意の中引っ越ししました。
次は駿河台に引っ越しします。長男、次男の通う暁星小学校に通いやすいという事情もあり、駿河台にしたようです。ちなみに暁星小学校は月謝3円の学校です。この家、結構貧しいんじゃなかったっけ…。
それから麹町、麴町富士見町の家に引っ越しします。特に富士見町の家は日当たりも悪く、道路よりも低い土地にある暗い家です。さらに、雨漏りもひどく、線路の脇のためいろいろと悩みの種がありました。
暗い家に住んでいてもラッキーなことに旦那寛が慶応義塾大学の教授になり、雑誌『明星』も復刊しました。やっと暮らし向きが向上してきました。
関東大震災を機に、現在の荻窪に持ち家を立てることにしました。というか、当時の感覚は、武蔵野の風景が残ってるけど、鉄道網が発達して、少しずつ都市計画が進んでいる街という状況のようです。
500坪の家なので、結構でかい。今時こんな家はないでしょうね。
こうしてみると、文豪の家の遍歴を見ていると、東京の都市計画についてもちょっと知れるので、面白いですね。
与謝野家は子沢山で弟子も多く抱えていました。多分12,3人くらいの子どもがいたようです。なんか、すげー。
谷崎潤一郎は結構家の建築に異様にこだわっています。最初に建てた家は、自分で設計し、和・洋・中の3様式が混在するお宅でした。
しかも、借金が重くのしかかりながらの執筆生活に突入します。結局こだわりの家は4年で売却することになります。さらに、私生活では最初の妻と離婚し、再婚するもすぐに離婚するという慌ただしい生活でもありました。
やがて、松子と出会い、彼女をもとにした作品を次々発表します。特に代表作『細雪』は松子の兄弟をもとにしています。
戦後と最後の家は自分でこういった住居がいいと希望をかなえます。
しかしまあ、最後の家に引っ越す動機が全家屋に冷暖房を望んだって、おいおい。まあ、高血圧を抱えているんじゃ、しょうがないですね。
最後の家を設計した建築家は『陰翳礼讃』のような家をイメージしたのですが、谷崎自身は昔とは異なる要望を持っていたようです。
例えば、書斎は北側ではなく、日の当たる南側の方がいいとか。そんな感じで決して昔とは同じというわけではないことがわかります。
人は年を取ると場合によっては考え方も変わるのですな。
■最後に
文豪たちの住宅事情の一例を紹介しました。まだまだ文豪の住宅事情はたくさん紹介されています。
なんてったって、『山月記』でおなじみの中島敦までいるのですから。きちんと客観的な史実に基づいてまとめられています。