こんばんわ、トーコです。
今日は、田辺聖子の『田辺聖子 十八歳の日の記録』です。
■あらすじ
田辺聖子は、令和元年に亡くなりました。それから遺族が遺品を整理した際に、古い手帳が見つかります。
それは昭和20年4月から昭和22年3月までの記録でした。そこには、様々な出来事が書かれています。
■作品を読んで
まずは、これまでに紹介した田辺聖子作品です。
56.『女の日時計』、63.『おちくぼ姫』、185.『田辺聖子の人生あまから川柳』、288.『死なないで』
結構増えてきました。ちなみに、田辺聖子が残した作品は約700冊です。また、作家生活も60年近く行っていたかと思います。
代表作も結構あります。とはいえ、紹介している作品は『おちくぼ姫』以外はかなりニッチな気がします。
まあ、それはさておきまして、本編に行きましょう。
この作品は、遺族が遺品整理をしている最中に出てきたものです。出てきたころ、テレビ局から田辺聖子と戦争をテーマにした番組をつくれないかと打診があったようです。
手帳は自筆のイラストと短い詩が書かれた表紙で、作家になる前の18歳のころの様子が記録されています。
スタートは、昭和20年4月1日で、なぜこの日にしたのかがきちんと書かれています。今も昔もきりがいいからというのは、変わらないようです。
そして、日記に対する思いも記されています。
新しいノートをおろして、新しい日記を書こうとはずっと前から思っていたことだが、キリがわるいから、四月からにしようと心まちにしていたのである。それくらい、わたしは”日記”というものに執着を持っている。
日記は好きである。日記は書けば書くほど、心の中が整理され、頭も澄み渡って来る。反省が出来、奮発心がおこる。
このころから「書く」ということをかなり意識しているんだな、と思います。なかなかなものの気がします。
当時の田辺聖子は、樟蔭女子専門学校の国文科に通うも、学徒動員令が出てしまい、軍需工場で働いています。
軍需工場(今のグンゼの工場)は兵庫県の尼崎にあるので、平日は工場の寮に住み、休日は大阪の実家に帰るという生活でした。
勉強したくて入った女専でほぼ勉強ができず、将来は結婚したくないし、学者になりたい、作家になりたいと思いながら、軍需工場での労働にあたっていました。
書き始めたてのころは工場内の人間関係に触れられている記述が多いです。それこそ、仲の良い友人が何人か登場したりします。
最初のキーポイントは、6月の空襲の記述でしょうか。
空襲が来た日、田辺聖子は、小阪の学校にいたので無事でしたが、実家の田辺写真館は燃えてしまいました。この時の空襲で、大阪の中心部はかなりやられています。
大阪の地理に明るい人はそのまま聞いてほしいのですが、女専のある小阪から鶴橋までは電車が通じていますが、そこから先は不通でした。なので、鶴橋から福島まで歩きで帰ったそうです。
Googleで測ったところ、約7㎞です。1時間半で歩ける距離ですが、ところどころ焼けて目印になる建物がなければ、火の海になっている場所も会ったり、家が焼けているかもしれないという不安もあったことでしょう。
描いている風景がかなり生々しく、なんだかこの時の情景が思い浮かんでくるような描写です。なんだか、作家として出来上がりつつあります。
戦後にデビューして戦争について描く時も、この日記の記述を生かしていたそうです。その分析は解説が1番詳しくされていますが、この時の目を尊重していたのにはちょっと驚きます。
解説文を寄せている方の考える第2の山場は終戦の日としていますが、トーコの個人的な山場は父が亡くなったことだと思います。
田辺写真館を経営していた父は、クラッシック音楽を好むハイカラな人でした。
しかし、終戦直後から体の調子が悪くなり、終戦の年の12月に亡くなります。しかも、食糧事情がすこぶる悪く、働き手は母親しかおらず、生活費はもちろん3人の教育費の捻出等に躍起になっていました。
時には、父親の回復を願って父親には白米、それ以外の家族には最低限のものを食べなければいけないときの父への恨みというか愚痴というかという記述もあります。
一家の生活は苦しい、けど田辺聖子自身はもっと学問をしたいし、作家になりたいという夢を捨てきれずにいました。先があるのかないのか分からない中で、希望をなんとか持って進もうともしていました。
日記にはその描写がちゃんと残っており、痛々しいほどの葛藤や本当に作家になれるのかという夢に押しつぶされそうになる一方で、何とか自分を励ましている部分があります。
まず、父親が亡くなってしばらくしてからの記述です。
小説の嵐は父の死以来再び私を訪れてくれない。
私は二度と再び小説を書き得ないかもしれない。憂鬱な日々だ。
…略。永久にー永久に私に、あの輝かしいインスピレーションは訪れないのであろうか?
この日記のなかでも小説を書いていましたが、父親が亡くなって1か月ほどは全く小説が書けずに焦っています。
たまにこういう感じで、小説が書けないと焦っていることもあります。なんというか、10代特有のものなんだろうなと思いますが、誰にでもあるんだな、と思ってしまいます。
読者の多くは知っています。大丈夫です、あなたは91歳まで生きて、700冊以上書きますから、と。焦らんでいいんです、と言いたくなります。
日記は昭和22年3月で終わります。女専をかなり優秀な成績で卒業し、大同商店に就職するというところで終わります。
学校に行かなくても作家になる人はたくさんいるし、実社会に出ていろんな経験をするんだから、と母親に励まされながら、就職します。
それから7年後には、弟と妹が就職し、めどが立ったので、入れ替わるように仕事をやめ、徐々に執筆活動にシフトしていきます。
しかも理由がまさかの古典を広めたいから。学んだ国文学が生きてます。
その後の活躍はもういいでしょう。さっき言いましたしね。
■最後に
作家になる前のころを描いた日記ですが、すでに田辺聖子は田辺聖子です。描写が結構鋭いです。
田辺聖子の18歳のころだけではなく、戦争時代の生活も読み取ることができる貴重な作品でもあります。