こんばんわ、トーコです。
今日は、米原万里の『パンツの面目 ふんどしの沽券』です。
■あらすじ
前代未聞のテーマ過ぎて、雑誌「ちくま」で連載中からかなり話題をかっさらい、没後「最も米原さんらしい本」と評されている作品です。
パンツ・ふんどしをめぐる歴史を、笑いだらけで彩っています。
■作品を読んで
まずは、これまで紹介した米原万里作品を。14.『打ちのめされるようなすごい本』 各種媒体で紹介した書評が多く収録されていました。
さらに、妹さんから見た姉の姿ということで、こちらの本もあります。219.『姉・米原万里』
この作品は、世にも珍しいくらいパンツとふんどしの歴史が軽妙な語り口、かつ確かな文献に基づきまとめられています。
読み進めれば、日本人が清潔な理由がよくわかります。
まず、のっけからア然とします。
著者が通っていたプラハのソビエト学校の小学4年生の家庭科の授業で最初に教わるものが、下着のパンツの作り方。
高度過ぎませんか、パンツって…。三次元を包まなければならないので、型紙、採寸がかなりガチで必要です。
日本の小学生なら雑巾を縫うくらいのスタートのはずが、裁縫の達人ですらパンツは難題、初心者には無理を通り越して無謀…。
ここで、なぜか越中ふんどしがもののたとえで出てきます。なぜなら、著者の父が愛用していたから、著者にとって身近だったのです。
まあ、ふんどしならタオルの延長でしょうから、立体のパンツよりかは簡単な気はします。
ところが、2か月後林間学校で、1人のソ連人の女の子が手慣れた手つきでパンツを縫っていました。
時がたち、日本に帰国してからソ連の小説雑誌を読んで、腑に落ちます。ソ連では既製品のパンツが手に入りにくいのではないか、と。
展覧会で入手したカタログによれば、ソ連では第二次世界大戦が終了するまで、下着のパンツは一切工業生産されていなかったそうです。
そんなわけで、パンツは手作りが基本で、ソ連学校もその延長線上にあったことを理解するのでした。
2つ目の衝撃ですが、その前に、『ガセネッタ・シモネッタ』という作品からの引用です。
ヨーロッパの男たちも、つい最近までは猿股などはかないできたという厳然たる歴史的事実を確認することになった。ワイシャツがいまも必要以上に(膝に届くほどに)長くて側面にスリットが入っているのは、その名残だ。ワイシャツの前身頃と下端の後ろ身頃の下端で股を覆う。彼らのズボンの中はそうなっていたらしいのである。
…。やっぱりそうだったんだ。パンツの存在を知る現代人から見ると、ドン引くしかない話なのですが。
しかし、この文章様々な反響があったようで、中にはこんな援護射撃のコメントもありました。
まず、これは事実で、実際に体感した人もいること、イギリスに赴任した外交官の奥さんからもイギリス王室は今でもセレモニーではすっぽんぽんなことを教えてくれます。
フィンランド人の父を持つ方からも、生前は猿股を着用せず、病院に入院の際も寝間着のズボンを直にはいていたとか。
さらに、終戦直後に国後島にいた人からは、ルパシカの下端が黄色というか茶色になっていたという話。これは複数の人からの目撃証言がありました。
さらにさらに、北海道で講演した時に、上品な紳士から「ルパシカの下端が黄ばんでた件ですが…」と斬新な解釈を聞かされます。
ちなみに、この方は長勢了治さんという人で、今日本でソ連抑留者問題に最も詳しい研究者の一人らしいです。彼から提供された資料を基に、「ルパシカの下端の黄ばみ」に関する講釈を進めます。
抑留者が最初に困る問題は、便所の紙をくれないことだったようです。ケツを拭かないだなんて、一体ソ連人はどうしてんだ、と。
その補足を長勢了治氏の資料の捕虜たちの手記をたどることで解決させます。同時に著者は手記の感想をこう述べます。
と同時に、抑留時代を語る名もなき人々の筆力に驚かされた。過酷な条件下の猥雑な細部を冷静に克明に観察し、それを他者に分かる言葉で語りながら、ユーモラスに突き放す。その崇高な精神に胸打たれる。
ヘンテコなテーマを扱いつつも協力してくれる人がいたり、文学的に優れていることもさりげなく示したりと、さすがだなと思います。
米原万里の持つ魅力なのでしょうね、きっと。この人が今生きていたらさぞかしユーモアあふれる講釈を垂れてくれるのになあ、と思います。
(※この人の本業は、ロシア語の同時通訳です。おそらく、要人に会ったことある気がします。)
一方の女性はというと、第二次世界大戦をはさんだ40年代の文学作品には、パンツよりズロースという腰から大腿部を覆うゆるやかな半ズボン状の下ばきが多く登場します。
もちろんですが、現代でいうところのパンチラ的な要素を持ちながら、文学作品に登場します。まあ、さりげなく見せた方が奥ゆかしいのは日本だけではないようです。
それから、なんで羞恥心という文化できたのかという考察が出てきます。しかも、地味に文献から引用されているので、れっきとした事実なのだ、というからまあ面白い。
どちらのエピソードに共通するのは、恥ずかしいから隠すのではなく、隠すことによっていつも間にやら恥じらいが生まれるという逆の話になっていることでしょうか。
この作品は、ふざけているテーマに見えるのですが、パンツって意外と重要なものというあんまり逃げない方がいいテーマであること、それを文献に沿ってきちんと論じられており、客観的事実に基づきすぎているので、それがかえって面白くなっています。
あとがきにも触れられているのですが、連載引き受け時と比較してもいろいろと目論見が外れていきます。
人間の下半身を被う肌着に関する考察をするという試みは、進めば進むほど途轍もなく奥深く途方もなく広大な世界であることを思い知らされるのだった。毎回、連載を読んださまざまな方から経験談や資料を寄せられ、とても助けられたと同時に、わたしごときではとうてい対処できない膨大な人類の文化遺産を相手にしている無力感に打ちひしがれたものだ。
名前に似合わないくらいの、相当な大変さだったようですね。読んでいるこっちは、そんなことを微塵も感じなかったのですが。
さらにですが、
毎回、切り口だけは面白い疑問やテーマを掲げて、この切り口の面白さを、さらに人間の本質に迫るような本格的な面白さに昇格させたいと志だけは高く持ってパンツとフンドシの大海に乗り出していくものの、燃料も航海技術も足らないことが判明し、浅瀬でパシャパシャと水を搔いただけで引き返して来るという、惨めなことを繰り返してきた。
と著者は言います。読んでいるこっちは、そんなことはないんですけど、と言いたいですが。中海には行ったよ。
著者はなかなか反省の多い作品と思っているようですが、トーコはこの作品は、本当に面白い思います。
切り口の面白さを昇格させるために、多くの人が資料や証言を寄せてくれたのだと思います。読者からもこのテーマがより面白くなるよう著者のことを助けてくれたのだと思います。
こんなテーマの作品なかなかないですし、みんな内心読みたいと思っていたのかもしれませんね。
■最後に
パンツとふんどしをテーマにしていますが、中身は確かな文献に基づいて論じられているので、それが余計に面白くさせています。
ありそうでないテーマを真剣に述べています。これは抱腹絶倒で、ある意味名作です。
[…] 14.『打ちのめされるようなすごい本』、364.『パンツの面目 ふんどしの沽券』 […]