こんばんわ、トーコです。
今日は、平田オリザの『わかりあえないことから』です。
■あらすじ
今の就職活動で学生たちに求められているものNo.1は「コミュニケーション能力」。ですが、求める方も求められる方も正確な意味は分かっていないかもしれません。
そんな中で、コミュニケーション教育に携わる中での違和感を中心に書いています。
■作品を読んで
まずは、著者の平田オリザさんについて紹介します。なんと、オリザは本名です。まあ、びっくり。
大学在学中に劇団を旗揚げし、主に戯曲と演出を担当します。近年は、大学等で学識者としての活動も行っています。特に2002年からの国語の教科書で、演劇ワークショップの方法論をもとにした教室で演劇を行うようになっています。
ちなみに高校は中退しているので、今でいうところの大検を受けて国際基督教大学に入ったのだとか。高校を中退した理由がまさかの自転車一周の旅をするためなので、まあ驚く。
で、どんな親じゃ、と思って調べたら、父はシナリオライター、母は心理士、祖父は医者、母方の親戚に大林宣彦とまあ、結構すごい人が集まっています。
トーコは、学校で演劇はやった記憶がないですけどね。高校には演劇部がありましたけど。
それはさておき、本編に行きましょう。
まえがきでは、以下のように書いています。
日本のコミュニケーション教育は、あるいは従来の国語教育でも、多くの場合、それは「わかりあう」ことに重点が置かれてきたように思う。私は、その点に強い疑問を持っている。
わかりあえないところから出発するコミュニケーションというものを考えてみたい。そして、そのわかりあえない中で、少しでも共有できる部分を見つけたときの喜びについても語ってみたい。
えっと、まさかのわかりあえないことを前提に進めるという、かなりの逆を行きます。
確かに、わかりあえないからみんな違ってみんないい、という世の中になれば、なんとなくですが、争いは減るでしょうね。
トーコも、職場の人間たちを理解しようと努力しなくていいんでしょうね。
新しい職場になってから3か月が経過しているんですが、
- 長時間残業大嫌い、健康的な生活を送りたい
- 早く帰りたい、なぜなら家には積読が待っている(393.『負けるのは美しく』著:児玉清 と一緒)
- ブログ書きたい
- 極力会社にいたくない、なぜなら非常に静かで、眠くなる。そのくせ、相談とかほとんどできないという謎環境。
と思うこの頃です。すんません、これはトーコの愚痴ですね。でも、きっと多いと思いますよ。ふー、社会で生きるのは大変だ。
戻りましょう。そして、わかりあえないことからスタートしての、ふと誰かと何かを共有できた時の喜び。
コミュニケーションはそれが面白いのですが、そんな些細で小さなことについて、つらつらと書いています。
まずは、コミュニケーション能力とは何か。企業の求めるところから見ていきます。
表向きのコミュニケーション能力とは、異文化理解能力のことで、異なる文化、異なる価値観を持った人に対しても、きちんと自分の主張を伝えることができる、ということ。これができれば多くの人はストレスフリーで働けることでしょう。
しかし、企業はコミュニケーション能力はもう1つの意味で求めています。それは、輪を乱さないとか、会議は空気を読んで反対意見を言わないという、従来の日本のコミュニケーション能力のこと。
2つの矛盾したものを要求されることを、ダブルバインドと言います。
あの、意味わかんないですけど、と言いたくなることでしょう。しかし、残念ながらそれを求める側はおそらくこの矛盾に気づいていないことでしょうか。
しかも、かなり衝撃的だったのは、単語で話す子どもたちという方。というのも、子どもたちの一部で、小学校高学年、中学生になってもコミュニケーションの必要がないのか、萎縮しているのか不明だが、文でしゃべらず、単語で話すということ。
とはいえ、ライフスタイルの多様化により、大学に入るまで親と教員以外の大人と話したことがなかったり、母親以外の異性とほとんど話さないという男子学生も多くなっているのだとか。
ライフスタイルの多様化という無難な言葉からは、想像しにくいほどの現実がそこにありますなあ。すごいなあ、さすがにトーコも部活動とかでいろいろな大人と話しましたし、そもそも共学校なので強制的にしゃべらざるを得ないし…。
著者はこの状況を踏まえ、学生たちにこういいます。
世間で言うコミュニケーション能力の大半は、たかだか慣れのレベルの問題だ。でもね、二〇歳過ぎたら、慣れも実力のうちなんだよ。
慣れかあ。就職を通過した後も、特に大企業はそうですが、最初に言ったグローバル基準のコミュニケーションと日本型コミュニケーションの両方を求められることになるでしょうが。
第1章の最後に、コミュニケーション教育は参加型、体験型のプログラムも取り入れるべきだと主張します。
第2章からは、コミュニケーション教育の実践編になります。演劇のプログラムを教育に取り入れることです。
というのも、現場の教員からはかなり驚きをもって迎えられたことでしょう。3時間で劇は完成しますが、なんと先生たちには教えないでくださいと頼んでいるとのこと。で、もっと驚きは、生徒たちの授業の参加率が高いことでしょうか。
何というか、今の日本の国語教育の限界を見ている気がします。コミュニケーション教育は、演劇、音楽、図工、ダンスとかも当てはまります。国語ですべてやるには限界があるのです。
この指摘は、演劇の世界でやっている人の目線からじゃないと出てこない話でしょうね。
終わりに近づくにつれ、コンテクストの「ずれ」の問題を指摘します。ここでいうコンテクストの「ずれ」は、「簡単に見えるけれどコンテクストの外側にある言葉」という意味です。
この「ずれ」は容易に見つかるものはないんですがね。ですが、この「ずれ」の認識が出発点となります。
そこから、コミュニケーションデザインという新しい学問領域につながっていきます。コミュニケーションデザインという言葉を見て、はてなが3個くらい並ぶことでしょう。
同時にシンパシーからエンパシーへ、同情から共感へ。そのためには、演劇のように短時間で、表面的かもしれないが、他者とコンテクストを摺りあわせ、イメージを共有することが求められます。
というのも、今の日本人はかなりバラバラです。考え方ひとつとっても違います。トーコの職場は気がついてて何もできてないんですけどね。
ただ、個人レベルで出来ることはあります。今の時代の求められていることはこれです。
いまは、自分たちで自分たちの地域のことについて判断をし、責任を持たなければならない。
(中略)。
ただ、この一点が変わったために、日本人に要求されているコミュニケーション能力の質が、いま、大きく変わりつつあるのだと思う。
(中略)
この新しい時代には、「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」が求められている。
私はこれを、「協調性から社交性へ」と呼んできた。
心からわかりあえることを前提としてはいけませんね。もうバラバラなんだから。会社の人間たちに言ってやりたいわ。
成熟社会では多様性が力となります。ということは、今までの常識とは真逆を行かないといけなくなります。
まさに「バラバラな人間が、価値観はバラバラなままで、どうにかしてうまくやっていく能力」を身につけないといけなくなります。これがもろ多様性ですからね。
ラッキーなことに、人間だけが、社会的な役割を演じ分けられます。これは、397.『リーダーの仮面』 にも記載がありますが、仮面をかぶって社会的な役割をうまく演じてしまうというもの。
コミュニケーションのあり方が変わっています。
価値観がバラバラだけど、どうにかして様々な仮面を演じ分けることで、異文化コミュニケーションと協調性が求められる今の日本のダブルバインド状態から解放されると説いています。
演劇の世界を見てきた人だからこそ、言えるコミュニケーション論でした。
■最後に
時代は変わっているのに、なぜかコミュニケーションだけダブルバインド状態に陥っている、今の世の中。
わかりあえることを前提としないコミュニケーションからスタートし、どうにかしてうまくやっていく能力を身につけるためのヒントが詰まっています。