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【ある男の一生】332.『あの春がゆき この夏がきて』著:乙川優三郎

投稿日:12月 8, 2021 更新日:

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こんばんわ、トーコです。

今日は、乙川優三郎の『あの春がゆき この夏がきて』です。

あの春がゆき この夏がきて (文芸書)

 

■あらすじ

神木は美大生のときに養父が倒れ、再び孤独になった。それから、就職し、幾度も女性を愛した。

美しいものを追い続けた男が最後にたどり着いたものは…。

 

■作品を読んで

乙川優三郎作品はこれまで幾度も紹介しているので、良かったらどうぞ。

8.『ロゴスの市』147.『二十五年後の読書』148.「太陽は気を失う」

なんだか、もののあわれではないですが、作家の示したい人生観がくっきり出ている独特の感じが好きなんですよね。新作が出るたびに定期的に読みたくなる。

この表現で通じる方、トーコと友達にきっとなれます。いるかな…。

さて話を戻しましょう。

この作品は、神木という男が芸大生になって、養父を失ったところから始まります。

養父を失ったところでさりげなく戦争孤児として浮浪から救われた、と書かれていますが、トーコは冒頭ではつかむことで必死ですっかり忘れていました。中盤で思い出します。

まず、冒頭の章は養父が亡くなった場面から始まります。天涯孤独の身になっても、裕福な養父がアパートを残していたので、学費や生活費に困りませんでした。

卒業してからは、出版社のデザイン室に勤め、本の装幀を生業としていました。

そんな男の人生の節目に現れる女性たちの姿もこの作品のまた1つの魅力です。なんか、寅さんみたい。寅さんよりは人情派ではないけど。

2つ目の話では、冬のスキーで出かけた街で出会った清美との情事を楽しみます。とはいえ、清美の夫は2年半ほど旅に出かけていて、最後に会った時にはその夫が戻ってくるというときでした。

夫のいないときの話なので、清美が墓場まで持っていけばばれることはないでしょう。冬の日の冷えた様子が伝わってきます。

そんな日々の中で神木は自分についてこう分析しています。

神木が疲れているのは窮屈な社会と疲労のためで、孤独はまた別のものであった。逃れるための結婚を考えないわけではないが、なぜか結婚願望の希薄な女性と知り合い、熱愛には至らずに終わってきた。一歩引いて見る癖が災いすることもあった。

基本の性格って変わらないのだと思います。物語を通しても、神木の基本スタンスは全く変わることはありません。

なんというか、人情派というよりかはドライ。だけど、ハードボイルドほどのクールさはない、現代社会にいそうな温度を持つ男性。

思っている以上に多い気がする、こういう男の人。

と思えば、独立した若い女性の装幀デザイナーと出会って、もう1度自分の人生をふと考えてみたくもなります。

独立心の強いデザイナーはよくも悪くも男性のような性格をしており、いずれは自分で事務所を構えるという気概を持って仕事をしていました。

しかし、神木は同じ本の装幀デザイナーと言えども、月給とアパートの収入で平凡な暮らしをしていました。昔はあったであろう冒険心、仕事への不満、老朽化したアパート。それらのどれをとっても考えさせられる要素がたくさんあります。

と思ったら、次の章ではなんと、神木は会社を辞め、アパートを売り、バーのバーテンダーになっていました。

こうやってブログに書いているとなんか急ですけど、作品中ではいたって普通のことのように書かれています。

バーにはマリエというニューカレドニア出身で大学卒業ののち、ゼネコンで働いていた女がホステスとして勤めていました。

神木はマリエの印象をこう表しています。

…、上等のスーツを着れば立派なビジネスウーマンで通る教養も備えている。ただ決定的になにかが欠落しているために、心根の優しいひ弱な女を生きていた。どうしたらこんな善良な女ができるのか、神木は気になった。

おそらくですが、マリエにかけているのは男を見たらまず疑うこと、なんだと思います。確かに幾度となくつまんない男に騙されていたようです。

心根の優しいひ弱な女っておりますよ、ええ。なんか、君はほんの少し人を見たら疑うことを覚えた方がいいのではないかい、と思うくらいの若者がいますね、トーコの職場にも。あ、トーコの職場は水商売ではないですが。

彼女が人生を間違える前に、水商売から足を洗った方がいいだろう、と神木は考えていました。

ある台風の日、マリエを神木の自宅に避難させました。その時に見たマリエの裸体を神木はひたすらにコンテで描きました。神木には、マリエが自分なりに咀嚼したヴィーナスのように見えたからでした。

一方でマリエは涙を流していました。おそらく、神木に惚れていたのでしょう。抱かれたいと思った男の反応がまさかの絵のモデルとしての対象なのですから、まあ普通は傷つきます。

マリエが店から去った後、ある夫人が現れ、神木に画集の装幀を依頼します。すでに装幀デザイナーを廃業した神木にとっては再びの挑戦でもありました。

しかし、思いのほか神木はのめり込んで作業します。逆にバーに立つ方が休息になっていたほどです。これをきっかけに装幀デザイナーとしての仕事がぽつりぽつりとやってくるようになります。

そのころ、昔の懐かしい仲間の西野がフランスから一時帰国します。彼は素晴らしい絵を描くも、まったく売れずにいました。けど、彼なりに満足していました。不思議です。

そんな画家の姿を見て、現在の自分を思います。まだ見ぬ美しい本の装幀を作ってみようと、静かに決心します。

ラストに近づくと、神木の幼少期の出来事が描かれています。物語の冒頭に戦争孤児という言葉がさらりと書かれていますが、この時の出来事が生々しく描かれています。同時に運よく養父に出会うことができ、そのまま養父の世話になります。

そして、最後にバーをたたみ、川崎から房総半島に移住し、神木はアトリエを構えます。ここでは日々本の装幀デザイナーとして戦っています。

フランスにいる西野から激励の手紙が届きます。肝心のことは語らないが、彼はこうも思います。

およそ美しいと感じるものには人知を超える生命力があり、見入るほどの生動感を醸すからであった。

なんだかわかります。だから人は美しいものを見たいのです。そして、それを作り出す職人に敬意を表します。

そんな時に、マリエと娘のゾエが訪ねます。空白の時を埋めることは出来ませんが、マリエが病気の手術のためにフランスに行く途中であることを語ります。

ゾエは神木とマリエの関係をなんとなく理解しています。ゾエもまたデザイナーのためか神木とウマが合います。

神木にとってマリエはある種の盟友です。マリエもきっと似たような感情を持っているし、ゾエも神木との話を何度も聞いていたのだと思います。

女性への見方もマリエの章以降は変化が見られます。深いものをお互い持つことができたのだと思います。

過ぎ去った歳月がそこにあり、もういいのかもしれないと思う一方で、マリエとゾエに会い、まだ美しい本を生み出さなければ、と思うのでした。

生きて、信じられる仕事をして、ついに求められたものを創造する幸せを、ゾエにも体現して見せなければならない。言い換えるなら、生きられるだけ生きて一冊でも多くの美しい本を生むことが自分のような幸運に恵まれた人間の務めであって、逃げることは許されない。

神木も長く生きたことでしょう。でも、まだ生きる限りは美しい本を産み続けるという静かな決意でもあります。

若いころは芸術に対する覚悟が見えていなかったのですが、老境に入り見事に見出していました。

そんな男の静かなる生き方が描かれています。

 

■最後に

男の女への想いの変化や己の芸術への想いの変化が、神木の生活の変化とともに静かに描かれています。

人間の葛藤が静かに描かれている作品です。

 

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