こんばんわ、トーコです。
今日は、江國香織の『すいかの匂い』です。
■あらすじ
あの夏の記憶がいつまでもそこにある。すいかの匂い、おはじきの音…。
11人の少女の夏の記憶の物語です。
■作品を読んで
まずは、これまでに紹介した江國香織作品です。
1.『金平糖の降るところ』、64.『なかなか暮れない夏の夕暮れ』、149.『神様のボート』、195.『旅ドロップ』、
208.『彼女たちの場合は』、254.『去年の雪』、352.『がらくた』
増えましたね…。当ブログでも最多登場作家な気がしてきます。(集計してないので何とも言えませんが)
それでは、作品に行きましょう。
まず、表題作「すいかの匂い」。もう表題作をみせちゃうんだ、というちょっとした衝撃。この先どうなるんだか…。
冒頭こんな文で始まります。
すいかを食べると思い出すことがある。九歳の夏のことだ。母の出産のあいだ、私は夏休みを叔母の家にあずけられてすごした。両親と離れるのははじめてのことだった。叔母の住む羽村町というのが東京都に属し、都心から日帰りで遊びに行ける場所だ、と知ったのは大人になってからのことで、何時間も電車に乗り、川が流れ、つり橋を渡って行く叔母の家は、当時の私にとって、はるか遠い田舎だった。
9歳の女の子が生まれて初めて親元を離れ、あまりなじみのない場所の親戚の家に泊まるという経験はかなり心細かったことでしょう。
羽村町という場所が大人になってから日帰りで行けるほどの場所だったと知っても、9歳の子には家からは遠すぎる場所のような気がする。
トーコも市内の祖父母の家が遠い場所のように感じましたが、高校から大学にかけて自由に動けるようになってからは、そんなに遠い場所ではないことを感じた記憶があります。
ましてや、社会人になって車を持ったらどこでも移動ができるので、事故は怖いけど自由に動けるってすごい…、と思ったものです。
そんなことを想うのは、車を手放してからですが。
いくら叔母夫婦が優しくても、家の雰囲気がガラッと変わって、すっかりホームシックになっていました。
そんな時、私は耐えかねて叔母の財布を盗んで家を出ることにしました。泥棒と家出を両方やってのけました。
道に迷ったか、やがて遠くの家にたどり着きます。そこには母親と2人の息子がいました。私は、その家にお邪魔します。
なんだか楽しそうな団らん風景でした。私は、そこで一晩すごします。
しかし、翌朝起きると3人は消えており、その代わりおまわりさんと叔母夫婦、おばあさんが立っていました。おばあさんが警察に届けたようです。
この時の情景の言い方がなかなかやわらかいです。
交番に来て、女の子の声がすると届けたそうでした、という表現です。表現を変えるだけで、こうも印象が違くなってくるから驚きです。
この家は長いこと空き家だったので、私はこれ以上このことについて言わなかったようです。もちろん、両親にも叔母夫婦にも。
その分別のある子なのがすごい。なんだか、ひと夏の経験ってやつに変わりました。これが彼女の思い出です。
次は、「海辺の町」です。
私は(この作品のほとんどで、主人公の女の子の名前がない)、ビー玉よりおはじきの方が好きだ。おはじきの方が好きな理由もきちんと描写されています。音と形で好きだと言ってます。
ちょうど海辺の町に来たときは、父の借金が原因で父と母が離婚し、1番2人が幸せな時に離婚したのでときどき2人は会いに来ていました。
海辺の町で過ごした11歳の夏は私にとって、奇妙にあかるい夏でした。明るいと漢字にしないところがいいですね。あっけらかんとしたあかるさが出ますね。
先ほどの9歳の子も今回の子もそうですが、小学生の夏休みって暇を持て余すんですよね。
やることがなくて暇すぎて、時間の流れがゆっくり過ぎて、死ぬほど退屈で…。トーコもそんな記憶があります。テレビの政治ニュースにかじりついていましたもの、暇すぎて。
今回の私も暇を持て余したか、パン工場が好きになりました。パン工場の様子をこう描いています。
門を入るとすぐ右側に柘榴の木があり、その木に凭れて立っているのが好きだった。パンを焼く匂いのせいで、工場の敷地内は、外よりも少し温度が高いように思えた。そしてその温度差のぶんだけ、現実がまわりとずれているような気がした。柘榴の木に凭れ、足元を見ながらー濃い空色の、あの頃一ばん安物だった運動靴のつま先と、風に揺れるカヤツリグサや蛍袋ー私はただぼうっとしていた。壁にひびの入った気ない色の建物と煙突、時間がとまったような、なにかがほんの少しずれた空間。そこは奇妙な、それでいてとても安らかで居心地のいい場所だった。
朗読するにはちょうどいい場面な気がします。いつ朗読するかは、話は別ですが。
暇を持て余した私にとって、パン工場は現実とずれているような気がして、そのずれがとても居心地が良かったりしています。
そこで、1人のおばさんと出会います。おばさんは昼休みだけでなく、ちょくちょくやってきますが、決して子供が特別好きということでもないようで。
ある時、私に向かって「しいちゃん」と言いますが、私はそんな名前ではなく、おばさんにとっても何年も会っていない子のことを呼んでいました。
それから、私はおばさんからおはじきをもらいます。金魚みたいなやつをもらいます。
この物語のラストは、その年の冬にパン工場が閉鎖され、同じころに父が失踪し、次の年に水泳教室をしている小川老人が海で溺死しました。
しかし、こういうことは記憶が薄くなりますが、パン工場のおばさんの記憶はいつまでもおなじあかるさでそこにあります。まるでつい最近のように。
回想しているように見えて、回想していないラストです。
あとがきが川上弘美で、彼女も江國さんが漢字とひらがなを見事に選択している件について触れています。同業者でも舌を巻くくらいの使い分けなのでしょうね。すごいなあという言葉がものすごく響きます。
■最後に
匂いや感覚で思い出されるあの夏の記憶について描いた短編集です。
文学的な表現もさることながら、あの夏の記憶を自分1人でしか持っていないはずの物語として、読者と一緒にひみつとして共有しているような感覚がしてきます。